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2022.07.08 17:00

精神科医が森鷗外と実母の「母子一体関係」を分析したら

ドイツ留学時代の森鷗外

同書「はじめに 文庫化によせて」で、六草氏はこう書く。
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「さまざまな文献を読むうちに、『舞姫』エリスのモデル、すなわち鷗外の恋人が娼婦であったとする説が、鷗外関係者のあいだに深く根付いていることを知り、驚愕します」

「女性にとって娼婦呼ばわりは最も屈辱的な行為です。それでいつしか私の目標は、彼女の汚名を晴らすことに変わっていったのでした」

女の執念、というやつだろうか。そして、それは鷗外(舞姫)研究者に望外の恵沢を与えた。
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ここで、私にある疑問が浮かんだ。

なぜ鷗外はドイツからの帰朝後、最初の創作として『舞姫』を著したのか?いかにフィクションといえど、作者を主人公に見立てて読まれることは容易に想像できる。俗にいえば「留学で恋に落ちた異国女性を捨てたエリート官僚」の物語をわざわざ世間に知らしめる意図は?という疑問の生じるのは自然だろう。

そこには、鷗外森林太郎の母親が絡んでいたと思われる。それを解くために、森家の歴史から説き起こす必要がある。

「女子は家事裁縫さへ出来れば」


1862(文久2)年、今の島根県、津和野藩主亀井家の御典医を勤める森家11代目として、林太郎は産声を上げた。9代目森白仙には男子がなく、娘峰子(ミ子(みね))に婿養子を取った。林太郎の父静男である。先代の失策で森家は減封され、白仙自身が養子だったことから、長男林太郎は森家にとって久々の「跡継ぎ」として期待された。

森家の先代次男が分家に出た先が西家。その長男が文化人切手シリーズの「最高峰」西周であり、峰子とは(血はつながらないが)いとこの関係。のちに重要な役回りを果たす。

母峰子は、林太郎のあと篤二郎と喜美子、潤三郎を産んだ。その中で、森家の家長となるべき長男林太郎に対する扱いは、明らかに他の子たちと差があった。

栴檀(せんだん)は双葉より芳し。林太郎は5歳で論語、6歳で孟子を学んだ。潤三郎によると、父静男は藩命で蘭医方(西洋医学)を学ぶのに忙しく、家には不在がち。峰子が林太郎の復習の監督を務めた。(『鷗外森林太郎』森北書店)


森鷗外の両親。『父親としての森鷗外』森於菟 ちくま文庫 より

明治維新前後の事で、「女子は家事裁縫さへ出来れば、文字などは知るに及ばない」時代だったが、峰子は自分の母親(林太郎の祖母)に請うて、いろは文字から学び、息子につきっきりとなった。林太郎が寝てから夜の更けるまで、翌日分を勉強した苦労を三男の潤三郎にしばしば言い聞かせたという。

峰子が林太郎の世話を焼いたのは勉学ばかりではなかった。

1888(明治21)年9月8日、林太郎がベルリンから帰国。そのわずか2日後に前述の西周夫人が森家を訪れ、海軍中将、男爵赤松則良の長女登志子の縁談話を持ち込んだ。登志子の母は西家の嗣子紳六郎の姉で、伯母は幕臣榎本武揚の夫人。当然、この話は林太郎留学中に進んでおり、中心となったのが西周と姻戚関係にある峰子だった。当時結婚は家と家の間でのことであり、まして陸軍武官の結婚は条例で制限されていた。

さらにその2日後、エリーゼを乗せた船が日本に到着。森家だけでなく、陸軍も巻き込んだ「事件」となった。峰子は翌10月7日、篤二郎と喜美子同伴で陸軍軍医監の石黒忠悳を訪ねている。エリーゼをいかに母国に戻すかなど善後策を相談しに訪れたと思われる。

では林太郎本人はどう行動したのか?
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文=小出将則

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