コロナ禍で、フランスの経済学者ジャック・アタリの「合理的利他主義」という考え方に注目が集まった。
「自己利益のためには、利他こそが合理的な選択である」というこの考えによれば、マスクをするのも、自らの感染を防ぐ以上に他人への感染を防ぐことが目的になるという。マスクをすれば、全体のウイルス量が下がって世界がうまくまわるので、マスクをするという利他的な行動は、結果的に自己の利益を最大化するのだという。
この合理的利他主義とは、まさに「未来への投資」としての利他である。しかし、私たちの未来はそんなに合理的に予測できない。利他的に行動しても自分の利益にならないことは多々ある。時に「こんないいことが自分に起こったのは、あのとき利他的なことをしたからだ」と思うこともあるが、それは過去の行動ともたらされた利益の因果関係で事後的に結びつけているにすぎない。利他を合理的な投資として回収することは困難だ。
私は利他を考えることで、世界を違った人間観でとらえたい。人間が確固たる意志をもち、未来を網羅的に計測し、最適な選択肢を選んでいく─100年前に、文化人類学者のマルセル・モースが『贈与論』のなかで批判した「ホモ・エコノミクス」という人間観はアタリの理論にも採用されているが、本当にこの世界は、人間の意志で合理的にできているのか。意志に還元されないものによってこそ、世界の大半が動いているはず。
コロナ禍で行動に移された利他をみてみたい。ごみ収集をしている人に感謝を伝えたり、スーパーの代わりにつぶれそうななじみの店へ買い物に行ったり。大切だと気づいたものを守るためには、後先の利益を考えずに、行動しなければいけない。かえってこないかもしれないし、どうなるかわからないがやってしまう。こうした行動の結果としての利他を、私は「思いがけず利他」と呼ぶ。利他の本質は、意志外の「思いがけなさ」にある。