日本の明治時代以前には、自分の意見を多くの人に伝えて賛同を得る方法は書面によるものが主でした。明治時代に入ると、のちの自由民権運動にもみられるように、人々の政治への関心は高まっていきました。そのような機運のなか、福澤諭吉は、人前に立ち口頭で意見を発表することの重要性を説きました。人々が互いに意思伝達をすることで社会的に結びつき、集団の意思形成を行う場をつくることに尽力したのです。
福澤による第1回目の演説の題目は「明治七年六月七日集会の演説」。その演説は「学問の伝播」「大勢の人に向かって意見を述べられるようになること」「婦人、子供もきちんと話ができるようになること」「議論ができるようになること」といった内容で、西洋風の演説を稽古する意義について述べたと言います。
第1回目の演説会の前年に、福沢は慶應義塾の先進者である小幡篤次郎と小泉信吉が共著した「会議弁」 をもとに、門下生らと熱心に演説の練習を行いました。それが「三田演説会」となったのです。
ちなみに、「演説」はもともと仏教語で、「講義や仏教者による説教」といった意味がありました。福澤は大勢に向けて話をするという意味である英語の「Speach(スピーチ)」を、この「演説」という言葉に置き換えました。明治時代の演説ブームを経て、「人前で主義主張をする」という活動や意味が広く普及し、現在は当たり前のように使われています。
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