芸人を支えるK-PRO代表 児島気奈が「お笑い界の母」になるまで


東京のお笑いライブシーンを開拓


2000年代にK-PROが登場するまで、東京のお笑いライブといえば、芸能事務所もしくは有名芸人や放送作家が主催するものがほとんどだった。コント赤信号の渡辺正行による「ラ・ママ新人コント大会」、高田文夫の「我らの高田“笑”学校」などである。

そこにまったく無名で、20代の若い女性が参入した形となり、当初は芸人の所属事務所からは白い目で見られたという。

「ちゃんとしたライブをやりたいと思えば思うほど、見に来てくれるお客さまとの関係を保つためにも、観覧料をきちんと取らなくてはならないと考えていました。しかし周囲からは“芸人を使って何か金儲けをしようとしているのでは”と思われることもありました」

その認識を変えるための時間は長くかかった。児島は「事務所の垣根を超えてライブを見たいというお客さまのニーズは必ず増えてくる」と説き続け、チケット代もなるべく低価格に設定して誠意を見せた。



実際、小劇場でのお笑いライブ運営のみで生活を成り立たせるのは難しかった。客が入らなければ赤字になることもあり、児島はバイトとの掛け持ちで自身の生活を支えてきた。

ライブ運営のみで生活ができるようになったのは、2011年の東日本大震災以降のことだ。

ライブは年12本から年1000本以上に


震災後は、「こんな時節にライブどころではない」という空気があり、お笑いライブの中止が相次いだ。しかし現実問題として、舞台がなければ生活が成り立たない芸人もたくさんいた。

そこで児島は覚悟を決める。「このような状況下でも芸人さんに出ていただける場所をつくるため、ライブ運営だけで生活していく」と。

その結果、K-PROは大きくなっていく。一年の公演数は初年度の12本から始まり、2015年には500本、そしてコロナ禍直前の2019年には1000本以上にまで成長した。

「芸人さんの口コミで『 K-PROのライブがきちんとしている』と事務所サイドにも伝わったようで徐々に信頼を得ていきました」

芸人さんへの徹底した気遣い


児島が、芸人たちから信頼を得て慕われるようになった理由のひとつに、芸人に対する徹底した気遣いがある。ライブを運営し、日々駄目出しをされるなかで学んできたものだ。

例えば芸人におつかいを頼まれた時。走って買いに行き汗だくで戻ってくると「そんな必死さ、誰も求めてねえよ」と言われたことがあった。

「それを言われてからは、芸人さんの見えるところではバタバタせず、裏では猛ダッシュして買いに行くことにしました。そうすると『あれっ? もう帰ってきたの、君使えるね』となるじゃないですか。日々笑いに真摯に向き合っている芸人さんに、余計なことに気を遣わせないように動くにはどうしたらいいのかを常に考えていました」

実は、芸人の楽屋でお菓子やお弁当などのケータリングを出し始めたのもK-PROが業界初だった。
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文=矢吹博志 構成=田中友梨 撮影=山田大輔

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