「境界」を駆け抜けた尾崎豊の『卒業』に、精神科医が贈る言葉


「俺と同級生じゃねえか!」


1960(昭和35)年、尾崎家の長男として康は東京で生まれた。

父健一によると、一発型の豊と違い、コツコツ型の康は「毎日ハチマキをして夜中の二時まで(勉強を)やったので、中学では一番」だった。それが高校では「素行が悪く、あまり家に帰らなくなり、職員会議が7回も開かれ」たようだ。(見崎鉄『盗んだバイクと壊れたガラス 尾崎豊の歌詞論』)。

1年浪人した康は早稲田大学法学部に入学。裁判所書記官を勤めた後、学習塾講師となり、現在は弁護士として活躍している。

本稿を書くにあたり、私は尾崎豊関連書物を50冊ほど買い込み、「Rock’n Roll」と落書きされ黒光りする机の写真を載せた『尾崎豊 永遠の愛と孤独』などを読み込んだ。
そのなかの一冊、康の『弟尾崎豊の愛と死と』を読んで、慄然とした。

兄の視線から描いた、覚醒剤中毒にあえぐ弟の姿におののいたからだけではない。奥付の著者経歴欄に1984年早大法卒とあったからだ。──俺と同級生じゃねえか!

当時の法学部はひと学年に千人以上いた。語学のクラス分けで別々になると、サークルやゼミで一緒にならない限り、同級とは分からない。しかも豊が新宿「ルイード」でデビューするのは、われわれが大学を卒業したまさにその月だった。

縁という御大層なものとはかけ離れてはいるものの、40年前早稲田キャンパス8号館の講義室で、尾崎豊の兄と同じ憲法や刑法の講義を聴いていたかもしれぬと思うと、フォークロックと呼ばれた尾崎の音楽の調べが、より耳のそばで聴こえる気がする。


尾崎と不倫の噂もあった女優・斉藤由貴との記事が掲載された「月刊カドカワ1990年11月号」から(現在はプレミアがつき、入手困難である)

現役高校生アーティストとしてデビュー


縁といえば、私の末弟は尾崎豊のデビュー当時からのファンだった。

尾崎家の兄弟の年齢差(5年)が小出家のそれと同じなのは偶然だが、1967年早生まれのうちの弟は、いわゆる校内暴力全盛期に中学時代を過ごした。

TBSテレビドラマ「3年B組金八先生」で荒れる学校がテーマとなったのがこのころ。管理教育からこぼれる生徒を表した「腐ったみかん」はその後、四流大学でうずくまる学生たちを描いた「ふぞろいの林檎(りんご)たち」に引き継がれていく。

私の弟は実家で父親との確執に飽いていた。

「つべこべ言わずに、親の言うことを聞けという態度が透けて見えた。大人はどうして間違いを認めないんだと、あのころは心底おもった」

進学校とは言えぬ地元の高校に入った弟は万引きやタバコ、バイク運転を見つかり、繰り返し停学を食らった。1学年上の尾崎豊も似たような理由で青山学院高等部を停学になった。この1983(昭和58)年の流行語が非行少女の家庭崩壊を描いた「積木くずし」だった。

豊の母親は、積木くずしに関わったカウンセラーに直接、相談をしている。だが、私の弟の場合と同じく、教科書的な上から目線の助言が功を奏することはなかった。豊は停学期間に書き溜めた歌を引っ提げて、現役高校生アーティストとしてその年の暮れにデビューした。

コロナ禍になるずいぶん前のこと。カラオケで弟の歌ったのがサードアルバム「壊れた扉から」収録の「Forget-me-not」。尾崎が20歳になる前日ぎりぎりに作った名曲だ。
♪君がおしえてくれた 花の名前は 街にうもれそうな 小さなわすれな草♪
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文=小出将則

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