「境界」を駆け抜けた尾崎豊の『卒業』に、精神科医が贈る言葉


野音ライブ、「飛び降り、骨折しつつ」叫び歌った……


尾崎豊の名を一躍とどろかせたのが、1984(昭和59)年8月の日比谷野外音楽堂でのライブだ。「アトミック・カフェ」の名で反核がテーマの音楽フェスティバル。半年前に出したファーストアルバムが二千枚程度だったので、まだ無名に近かった尾崎は演奏の途中、高さ7メートルの足場から飛び降り、足を骨折する。それでも、メンバーの肩車に乗って、♪自由って いったい なんだい♪と叫んだ。

当時、私は新聞社に入ったばかりで、東京社会部での研修中だった。尾崎のこの事件は全く記憶にない。その後下町の警察担当となり、記者クラブで他の新聞、テレビ、通信社の先輩記者にもまれて取材力を磨いた。そこで一緒だったのが共同通信の西山明だった。

普段は記者クラブの畳に寝転がっていた西山は、福島原発を早くから取材し、一冊の本にまとめていた(『原発症候群』批評社)。その西山が、「10代の教祖」として社会現象化している尾崎豊を取材しているという話を、別の先輩記者から聞いた。

残念ながらその経緯を本人から聴き出す前に、西山は病気で帰らぬ人となった。

沢木耕太郎との「歴史的対談」


尾崎をめぐる人のつながりは、思わぬところで見つかる。

西山と同じ大学で同期だったというノンフィクションライター沢木耕太郎が、尾崎豊と対談している(「月刊カドカワ」1991年第2号)。

1989(平成元)年、尾崎に長男裕哉(ひろや)が生まれた。翌年に5枚目アルバム「誕生」がリリースされ、対談は行われた。

沢木は、7歳の娘がアルバムの一曲「COOKIE」の一節♪おいらのためにクッキーを焼いてくれ♪を一回聴いただけで覚えて歌ったエピソードを紹介し、「言葉が溢(あふ)れてるけれども、言葉がしっかり伝わるよね。娘が歌詞を間違えないで歌えたのもそのせい」と称賛した。

一方で、対談4年前のニューヨークへの渡米後、所属音楽事務所の移転問題でごたごたし、覚醒剤取締法違反で逮捕後に出た4枚目アルバム「街路樹」については、「作るのが厳しかったんじゃないかな」とストレートにぶつけた。

これに対し尾崎が「NYにある退廃的なもの──ドラッグにしてもそうだし、犯罪にしてもそうだけど──そういうものに対応していく自分を歌いたかった」「あの時点で僕は何かにつまずいているんですよ。それに気づきながら歌っていることに意味がある」と答えたのが印象に残る。

対談の後半で、話題は歌い手と聴衆の関係に及んだ。尾崎はこういった。

「僕が幸せになるには他人も幸せでなくてはならない」

これを読んで即座に浮かんだのが、宮沢賢治の言葉だ。

「世界がぜんたい幸福にならないうちは個人の幸福はあり得ない」

両者に共通しているテーマは明らかだろう。個人と集団(共同体)との関係。宮沢賢治を敬愛した評論家吉本隆明の『共同幻想論』は、まさにそこを理論化して結実した著作だ。

ここでも尾崎とのつながりは途絶えない。尾崎と吉本を結んだのが音楽プロデューサーの須藤晃だった。
後編:「自由」を30回、「愛」を182回歌い上げた尾崎豊。31回忌に精神科医が思うこと に続く)

文=小出将則

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