「境界」を駆け抜けた尾崎豊の『卒業』に、精神科医が贈る言葉

デビュー当時から尾崎のファンだった筆者の末弟による鉛筆画

桜散る春。4月25日は「卒業」「十七歳の地図」などの名曲で80年代に熱狂的なファンを醸成し、今なお支持され続けるロック歌手、尾崎豊の没後30年──

この4月に民法と少年法が改正され、成人年齢が20歳から18歳に引き下げられた。その18歳で音楽界にデビューしたのが、OZAKIだった。高校をドロップアウトした若者がTシャツ、ジーンズ姿で歌う自由への渇望と愛の追求は、わずか9年で終止符が打たれた。

この文章は、少年と大人の、正常と異常の「境界」を駆け抜けたアーティスト尾崎豊への、4歳年上の精神科医からのオマージュである(以下、登場人物は敬称を略させていただく)。

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筆まめで趣味多彩、信仰心篤かった父


1965(昭和40)年11月29日、東京・世田谷の自衛隊中央病院で尾崎豊は生まれた。大正生まれの父健一は陸上自衛隊事務官。母絹江は父と同郷(岐阜・高山)の、人付き合いの好きな俳句をたしなむ女性だった。

健一は地元の実業学校を卒業後、営林署に勤めた。終戦直前に父(豊の祖父)を亡くし、戦後一級建築士になりたいと上京、夜間大学に通いながら職を転々とした後、発足直後の自衛隊に入り、定年まで勤め上げた。入隊後に絹江と結婚、長男康と5歳下の二男豊を授かる。

特筆すべきは健一の筆まめだろう。豊が満2歳の元旦から父は日記をつけ始めた。自身の日記は若い頃からつけてきたが、豊と康の視点から、3冊を同時に書いている。

豊は蝶が嫌いで水が苦手。2歳から保育園で「ブルー・シャトウ」の替え歌を♪森トンカツ、泉ニンニク♪と歌った。――豊の高校合格までつづいたこの日記がのちに、夭逝した彼の人となりを追うのに役立とうとは、当時父は夢にも思わなかっただろう。

健一は公務員という枠だけでは語れない人だった。仕事と並行して税理士や司法書士の勉強をし、最終的には社会保険労務士の資格を取り、豊が晩年に音楽事務所を立ち上げた際、手伝っている。

趣味も多彩だった。短歌に尺八、琴。若い頃はバイオリンを習いたがった。空手の流派である躰道(たいどう)は自衛隊に勤めた関係で始めたようで、豊にも小学2年のころから教えた。「文武両道」がモットーだったが、「育児にかんしてはむしろ放任主義だった」と日記で振り返っている。

信仰心の篤い仏教徒でもあった。豊が1歳の時に妻絹江が髄膜炎で生死をさまよい、妻の信仰する宗教に帰依した。以来、尾崎家の朝は題目のお勤めで始まり、豊も唱題して育った。

後年、コンサートステージに上がる前、豊は数珠を握りしめて心落ち着かせたという。


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「氷の世界」「無縁坂」をつま弾いた小学生時代


こうした父をもつ豊が音楽に目覚めたのは1976(昭和51)年、小学5年の時。東京・練馬から埼玉県朝霞市に引っ越した。転校先でいじめられ、不登校の時期もあった豊に、女性担任がギターを弾いてくれた。学校を休んだとき、両親が共働きのため誰もいない自宅で、兄のギターを押し入れから引っ張り出し、井上陽水の「氷の世界」や、さだまさしの「無縁坂」などをつま弾いた。

その後、中学では転校前の練馬に越境通学し、かつての悪友たちと行動を共にした。中2の秋、友達が教師に叱られ、坊主頭にされて家出したのを深夜までつきあった。この事件がデビューアルバム「十七歳の地図」に収められた「15の夜」の歌詞につながっていく。

ここで豊の兄、康のことにも言及しておきたい。康と私には、あるつながりがあった。
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文=小出将則

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