それは世界が、ロシアの暴挙の目撃者となることを意味し、新たな意味での抑止力とロシアの国家的損害を狙ったものと言え、私たちのように戦争や軍事を研究していた人間でも未知な領域と言える。そして、それらの政府の情報を公に先行して拡散し、さらに広げる役割を「ゴースト」が担っていたのだ。
しかし、悲しいかな、この「ゴースト」の存在を、日本のメディアに出演し、コメントする有識者や軍事・安全保障の専門家たちは充分に把握できていない。
日本は戦後、吉田茂を始祖として軍事や安保的思考を放棄し、保守本流の定義を経済主導に傾けた。日本の最高学府を卒業しても、専門が軍事や安保だけだと生活ができないので、経済外交を語ったり、株やESGの分野に進出したり、彼らはみな本来の専門からは遠ざかっていった。
今回のウクライナ侵攻でも、メディアでコメントを発する識者の情報レベルは痛々しいほど独自性がなく、インテリジェンスを語る有識者たちは、相変わらず誰もが聞いたことがある欧米のシンクタンクや有料データソース、外部コンサル、大手弁護士事務所、海外ニュースなどを情報源としており、「ゴースト」の存在すら知らずに握らされた情報を連呼している。
「ゴースト」が狙っているものとは
面白い話がある。「ゴースト」は「スプーク(怪しい者)」とも呼ばれており、アメリカではスパイのような扱いを受けている。議会にとっても、はたまた全米の一般市民にとってもスパイは一緒にいて決して気分が良いものではない。
知らぬうちに秘密を握られ報告されているかも知れない気分は、自由を愛するアメリカ人の国民性からして、国を守るためだとはいえ許せないものだ。しかし、それも2001年のアメリカ同時多発テロを潮目にある程度スパイ行為が容認されたといわれるが、いまもアメリカ人の誰もが憧れる職務ではない。
人から秘密情報を聞き出すことに生来長けた人間もいれば、それを分析・報告することが得意な人間もいる。例えて言うならば、営業ができる人間が経営幹部向けの資料づくりもうまいかと言えば、そうとは限らない。むしろ、現場で有能な人間は資料づくりが下手な場合も多い。
これは諜報の世界も同じであり、文章が書ける精鋭は貴重だ。国家の未来を左右する情報を拙く報告された暁にはその国は亡びるともいえるが、問われているのは官僚的な政府内文書の良し悪しではなく、一般国民向けの文章に長けているかである。
「ゴースト」はさらりと寄稿文を書く場合もあれば、コンサルとして多国籍企業などのクライアントに高度な分析レポートを上げる、はたまた論壇や学会で最前線を行きながら絶えず新たな情報をベースに記事や論文やコメントを書き「さすが」と言わしめている人間もいる。