山田:アンディ・ウォーホルやキース・ヘリングなどのトップアーティストとのお付き合いがあったと思いますが、エピソードを教えていただけますか?
和多利:親から僕への大学入学祝いが、ニューヨーク行きのエアチケットと3カ月の滞在費でした。それか、芸者遊びをするかの2チョイス。僕は前者を選んで、ニューヨークでアンディ・ウォーホルやキース・ヘリング、ナム・ジュン・パイクに実際に会っていました。当時、母がアートの仕事をしていたので、美術館へ行ってカタログを買ったり、アトリエに行って作品や資料を受け取って持ち帰るのが僕の最初の仕事でした。
アンディ・ウォーホルと母、志津子(写真=和多利氏提供)
山田:なんて贅沢!
和多利:アーティストたちがスタジオでどんなふうに仕事しているのかを見ることができてとても楽しかったです。高校時代も母のギャラリーには寺山修司さんや横尾忠則さんたちが出入りされていて、今考えると不思議な環境だったと思います。なんとなく身近に文化があることが自然な環境にあったのです。それでも未知なアーティストと会うと、ドキドキしてましたね(笑)。
今でも若いアーティストと仕事するのはとても楽しいし、彼らの提示する新しい価値観に触れ、それが今の日本ですごく重要で必要だと感じたら、旬な時に旬な方法でそれらを伝えていく。それが僕らの役目だと思っています。
山田:先ほどおっしゃっていたアーティストはまさにハイエンド層だと思います。彼らの周りはどんな世界でしたか?
キース・ヘリングと(写真=和多利氏提供)
和多利:ウォーホルのところに行くと、その時の流行りのクラブやレストランでのパーティに招かれる。あるいは詩人のアレン・ギンズバーグから「ポエムリーディング」に誘われたり。80年台のニューヨークでは、ポエムリーディングはクラブのVIPルームや静かなバーでオールナイトで開かれていました。そうしたアーティストたちの集まりに参加すると、さらにアップデートされた情報があってすごく楽しかったですね。
しかし、80年台の後半には多くのアーティストたちが次々とエイズで亡くなっていき、残念でした。そして90年台に入ると、母が面白いキュレーターを日本に呼んできて展覧会をやろうということになり、ワタリウム美術館を設立する流れになったわけです。
山田:そうするとさっきおっしゃったようなアーティストはサロンの主というか、社交の中心的存在だったのでしょうか?
和多利:はい。自分たちが新しい文化を作っていると自負していて、さらにそれをサポートするコレクターやパトロンもいました。ある時、ギンズバーグの詩とフランチェスコ・クレメンテの絵のコラボで、大きな豪華本を出して、それがあっという間に売り切れた。そのギャラがちゃんとギンズバーグに払われて、「今回の詩集がすごく売れたから、ファックスがやっと買えたんだよ」なんて言っていました(笑)。
アメリカでは裕福な人は惜しみなくお金を流し、アーティストたちをサポートするのが当たり前で、アーティスト同士でもサポートし合うすごく素敵な環境でしたね。