スーがウォルトに説明するように、モン族はベトナム戦争でアメリカ側につき、停戦後アメリカに移住してきた人々である。だが他のアジア系移民と同様、アメリカでの彼らの境遇は厳しく、白人を敵視する貧しいギャングの少年たちの荒みっぷりは、根強い人種差別と貧困から生まれていることが窺える。
ポーランド系移民を祖先に持ち生涯ブルーカラーだったウォルトは、決して裕福ではないがその差別的社会構造を維持してきた側に属している。そうした歴史的・社会的観点からすると、彼はモン族の少年たちに撃たれる理由はあっても、撃つことはできない。
むしろ、ウォルトの長年罪悪感で蝕まれた心に、神父の言うような真の安らぎを得るためには、自らが抱える「加害による傷」ごと、彼らの銃口の前に丸腰で立つ以外にない。それは同時に、隣人たちに対して繰り返される暴力を止め罰するという、両義的な行為となる。
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このようにして、暴力的な「父」たるアメリカの「息子」の1人としての贖罪と、隣の「息子」たちへの暴力をエスカレートさせる原因を作ってしまった「父」として取るべき行為は、ウォルトの中で一致する。
それは、出来事の成り行き上、思いがけなく自分が果たすべき真の役割を見出した男の取りうる、唯一倫理的な、だが奇跡的な行動として描かれる。
だから、正義感に燃える強い男が敵を叩きのめして勝利を収めるとか、知と権威の象徴が正しい判断を下して事態を収拾するというような、従来描かれてきたようなかたちにはならないのだ。
暴力の連鎖や繰り返される悲劇に対して、私たちの誰も直接の責任を取ることはできないことになっている。暴力を生き延びさせる構造の一端を私たちが支えているからと言って、じゃあどうしたらいいのか? 私たちはあまりに無力であり、自己の生活を防衛していくだけで精一杯ではないか、と。
多くの人が手をこまねく状況に対して、無謀にも「責任は自分が取る」としたのがウォルトの行動倫理である。もちろんそれは見方を変えれば、おせっかいというものかもしれない。ウォルトがタオやスーのために死ななくてはならない客観的理由は、どこにもない。
だからこそ、「父」の名は呼び出される必要があったのだ。
連載:シネマの男〜父なき時代のファーザーシップ
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