いま私が考えたいテーマは「男性」。特に「父」「父性」とは何か、に関心がある。
子に惜しみない愛情をかけ慈しむものとされる「母性」とは対照的に、一般的に「父性」は子を社会に向けて押し出すものとされている。また、「父」とは「強者」であり、その分、すべての責任を引き受ける者の名でもあった。それはこの社会で良くも悪くも「重し」として機能していた。
時代の変化とともに“強い女性”のイメージが豊かになってきた反面、“強い男性”のイメージはかつてのような吸引力を失っている。実質的な父権は低下し、父親の存在感もひと昔前と随分変わってきている。さまざまな立場から「父」なるものに抑圧されていた人々の声が上がるようにもなった。
つまり現代は、多くの人が自己の「弱者」性から発言し始めた時代と言えるだろう。しかしそれは、最終的に責任を引き受ける者がいないということも意味するのではないか。こうした中で、「父とは何か、父性とは何か」は、忘れられた問いになっているように思える。
本来、人は「父性」的な力を必要とするものだと私は考える。内包し慈しむ力だけでなく、切断し自立を促す力が働かなければ、私たちは大人になれないからだ。万難を排して言えば、何らかの強制的な力によってしか、人は一個の人間として社会化されないのだ。
そう考えると、リーダーを失っている現代社会では、新たな「父親的な力」、ファーザーシップが潜在的に求められている面があるかもしれない。
個人的な動機についても書き添えておきたい。私はいわゆる「父の娘」として育った。「父の娘」とは、「父なるもの」が体現する規範を内面化した娘のことを指す。
私の父は既に他界しているが、家庭では強い父権をふるいつつ、溺愛する娘に自分の理想像を投影し続けた。父への反発と被承認欲求に長年引き裂かれた私は、やがて美術を通じて「父殺し」を果たそうとした。その歪みはまだ私の中に残っている。だからこの連載は、自分の内なる「父」について再考する試みでもある。
古今の映画は、さまざまな父の姿を描いてきた。リーダー的な面だけではない。強面の父もいれば、情けない父もいる。昔ながらの寡黙な父もいれば、母の役割を果たす父もいる。少年や女性であっても、ファーザーシップを発揮する人もいる。
映画に登場した父の姿、あるいは「父親的な存在」を通し、この“父なき時代”に改めて「父」や「父性」について考えていきたいと思う。
「父」としてのあり方を自問する
第1回目に取り上げるのは、『そして父になる』(是枝裕和監督、2013)。「父をテーマにした有名な映画は?」と聞けば、おそらくこれをまず上げる人が多いのではないだろうか。第66回カンヌ国際映画祭 審査員賞をはじめ数々の賞を獲得して話題となり、いまも数年に一度はテレビ放映される人気作品である。
この映画のエッセンスはほぼ、タイトルに凝縮されていると言ってもいい。男性は、妻との間に子供ができたら法的に父というポジションを与えられるが、「父になる」とは実はそれほど簡単なことではない。さまざまな試行錯誤を経て、「そして父になる」のだ、と。
子供が小学校に上がる段になって判明した新生児取り違え事件が、物語の核にある。
(c)2013「そして父になる」製作委員会
一方は、東京のエリートサラリーマンの野々宮良多(福山雅治)・みどり(尾野真千子)夫妻と長男、慶多。もう一方は、群馬で小さな電気屋を営む斎木雄大(リリー・フランキー)・ゆかり(真木よう子)夫妻と長男、琉晴。ドラマは主に野々宮良多とみどりの側から描かれていく。