加害者としての心の傷と贖罪
さて、この英雄的な「父」のストーリーに副旋律のように絡んでくるのが、ウォルトの秘められた内面をめぐるもう1つの話である。
朝鮮戦争の退役軍人である彼は、戦後の米ソの勢力争いの中で「父」たる合衆国の旗の下に戦場で多くの人を殺傷し、それによって精神的外傷を負った「息子」たちの1人だ。その「加害者としての傷」は、長らくウォルトの心の奥深くに抑圧されてきた。
アメリカ自動車産業の輝かしい成果でもあるグラン・トリノ72年型をこよなく愛し、家の前には常に星条旗を掲げているウォルトだが、どんな大義名分があれ殺戮行為を遂行したかつての自分を許すことができず、そのせいで彼の心は血を流し続けている。
血と言えば、中盤から何度か咳とともに軽く吐血するシーンがあり、ウォルトが進行性の癌に冒されていることが示唆される。最後の犠牲的行動の選択にも、病に倒れ息子たちの管理の下で死ぬくらいなら、自ら意味のある死を選びたいという心情が働いていたかもしれない。
しかしもっと抽象化して見るならば、その血は単に身体の病の証のみならず、「加害者としての傷」が癒えないという精神的な病から滲み出たものと捉えられるだろう。
冒頭の妻の葬儀の後、「奥様との約束なので」と彼を案じて何度も訪問してくる若い神父に、彼は初めて戦争時の体験を言葉少なに語る。
その次の場面で、タオがガレージに忍び込み、このアジア人の少年に銃口を向けて追い詰めようとした時に、ウォルトは初めて吐血している。
戦争の記憶を吐露した場面の後に、かつて戦場で人を殺した時と同じ構えがあり、直後に吐血……と続くこのシーンのつながりは、決して偶然ではない。長年にわたって彼の心を傷つけ蝕んできた加害のトラウマが、一気に表面化したことを表しているのだ。
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ところでこの映画についてよく指摘されたのは、「テロとの闘い」という「正義」を掲げつつ、暴力の連鎖を引き起こしているアメリカ=ブッシュ政権(当時)への批判が込められているということである。
ドラマ中、暴力が勃発しそうなさまざまな場面で銃を構えた、あるいは指でそうしたポーズを取ってきたウォルトが、最後は暴力を止めるために「闘わない」という選択をする姿が、そのメッセージの象徴だ。
それによって招かれた彼の死──他殺だが実質自殺──は、イラクのみならず、アメリカという国が蹂躙してきた非白人に対するアメリカ白人の「贖罪」を示している、と見ることもできるだろう。