新聞を取っていない家庭が増えたため、若者の多くはもともと読む習慣がなく、読者だった老人は消えていくばかりで、将来の読者を紙以外で確保しようと、あわててネットにタダで流していた新聞記事を有料化しようとするも時すでに遅し。
ネットの普及により、さまざまなニュースが現場から発信されるようになり、新聞やマスメディアの伝える情報が後れて間違っていたり、権力に近い記者クラブ(という世界でも特異な組織)が伝える情報が政治に忖度していたりと、国民の味方というより第4の権力としてふんぞり返っていると見なされ、マスゴミなどと悪口を言われるようになった。
世の中のメディアのあり方を批判し、ネットやデジタル化の記事は書いているくせに、それを自分の問題としてとらえておらず、部数の維持ばかりに血道をあげているうちに、屋台骨の紙の新聞が傾いて大赤字になった、と批判する声が沸きあがった。
当事者としての新聞社は、権力を監視し社会の木鐸として良い報道をしようと努力してきたのに、何が悪かったのか? と理解できないまま、時代に取り残されないように形ばかりのデジタル化を進め、ネットと差別化するために調査報道などを強化しようとするも、購読者数が回復する兆しは見えない。
19世紀の電子メディア
現在ネットにあたふたしている新聞は、実はもともと「近代初の電子メディア」と言ったら、ほとんどの人は呆気にとられるかもしれない。
1853年にウクライナ南部のクリミア半島で勃発したクリミア戦争は、英仏オスマン帝国連合とロシアが戦ったものだが、日々の戦況は1830年代後半に実用化されたばかりの電気通信の祖ともいえる電信を使ってロンドンまで伝えられ、タイムズ紙が毎日の戦況や死傷者の情報を逐一伝えた。
それ以前には、遠い国で起きた戦争の情報が一般に伝わるのに数カ月から数年かかる場合もあり、ほとんどが過去の出来事の伝承に終わっていたが、電信によって何千キロも離れた場所で起こっている事件が日々リアルタイムに伝わってくると、人々はそれがまるで自分の家の近所で起きているように感じたという。
それは現在、ウクライナの戦況が毎日、ネットで伝わってくるのと同じような状況で、いてもたってもいられなくなったナイチンゲールが志願して戦場に向かった話は以前も書いた。
それ以前の新聞は、主に地元のニュースを人力で集め、遠隔地の出来事の情報は郵便で届くレベルの限られたものだった。取材範囲は狭く、月刊や週刊のニューズレター風の体裁で、ニュースが足りない日には休刊したり、遠くから来た緊急性のないニュースは後日まとめて出したりするという悠長な時代だった。
ところが電信という、いまのインターネットの前身にあたる電子メディアができると、電気信号を使って光の速度で情報が伝わってくる。遠く離れた国内の場所や隣国、行ったこともない海外の情報が日々押し寄せ、情報量もとてつもなく増えてしまった。これらが商売になると考えた新聞社は紙面を拡大し、多種多様な互いに無関係なニュースを重要度に合わせて読みやすいようにレイアウトして、輪転機という高速印刷機で日々印刷して配る、というイノベーションを仕掛けた。
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これは新聞社というニュースを加工するシステムの情報の入力部分が、電子化されたということになる。ある意味これは「電子化による本の発展形」とも考えられ、電子メディアのおかげで筆者や原稿が急に増えたので、しようがなく大きな紙に全員の話を並べた百科事典のような体裁にしたのだ。つまり新聞は複数の筆者による集合的な一種の本なのだ。