ボンドは英国紳士ではない? ラグジュアリーにおけるマナーとは

チャールズ皇太子(左)と映画「007」でジェームズ・ボンドを演じたダニエル・クレイグ(Getty Images)


紳士文化のマナーは一種、部外者排除のための壁でもあり、逆にいえば、このようにして英国紳士世界の価値は守られてきたのでした。

部外者もまた、このような特権的排他的な価値をこそ称賛するところがあり、「こんな自分を認めるならば、そんなクラブには入りたくない」という屈折した心理をもっていっそう、紳士文化の世界に対する憧憬を強めてきたところがあります。

多文化共生社会が進み、階級の壁が低くなっていく現代において、かつて特権性を保っていた紳士文化はすっかり幻想になり果てています。とはいえ、実態はなくなろうとも、その世界の幻想だけは形をゆるやかに変えながら、現代でも残っています。

成文化が「静止」を生む?


紳士文化の幻想を基盤にしているからこそ、英国紳士用品が支持されているという事実を踏まえて、関係者はマーケティングをおこなっています。紳士世界の反逆者をとりこむことで、自らの文化遺産の力を強化している節さえあります。

たとえばジェームズ・ボンドは、紳士世界のマナーという点からいえば掟破りばかりしているひどい反逆者です。彼は丁寧に扱うべき高級車をがんがん壊し、お約束の紐靴は履かずスリッポン、女性も大切に扱うふりをして、敵の弾が来たらすかさず彼女を楯にして犠牲にしてしまう(ショーン・コネリー時代)。


ショーン・コネリーがボンドを務めた『007 サンダーボール作戦』(Getty Images)

まあ、もともとレディファーストというのは、敵がいるかもしれない場所へ女性を先に楯として行かせたという含みがあったらしいので、それはそれでダブルスタンダードな紳士らしい振る舞いなのかもしれません。

虚実皮膜の間に生きるこんな自由奔放なキャラクターも英国紳士の仲間入りをさせることで、文化遺産は常にアップデートされ、ラグジュアリー製品のマーケティングに大いに利用されています。

ちなみに部外者が英国紳士と見るボンドは、自分をジェントルマン(紳士)だとは思っていない。ジェントルマンかどうかは自称するものではなく、他者が決めるものなのです。その点、ラグジュアリーと通底するところがあります。果てしなく議論を呼ぶ謎めいたところがある点も、ラグジュアリーと似ています。

実態がなくなったあとでもなお、ラグジュアリーを生む文化遺産として生き続けている英国紳士世界から学べることがあるとすれば、モノやサービスにふさわしいマナーをゆるやかに保ちながらも、完璧に成文化してそれを静止させるようなことはせず、外界の変化や個人の衝動に応じて開かれた柔軟性を保ち続けていくことの重要性でしょうか。自由と反逆のロマンティシズムの一さじを取り込んでいく深い懐があれば、最高です。

文=安西洋之、中野香織

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