ここでいう「ローカル文化」とはどういうものを指すのだろうか。ファッションデザイナーは、どういうサイズのローカル文化をイメージしているのだろうか?
栗野さんに聞くと、「ファッションデザイナーの場合、あまり考えていない。それが工芸と違うところ」と言います。大量生産の世界は脇におくとして、セラミックやテキスタイルはある物理的に狭い地域内において固有の技術を伝承するとの習慣や文化があります。一方、服の場合、厳密に地域を限定するケースと国レベルのケースが混在しやすのかもしれません。
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この「ローカル文化」という一括りが気になるのは、従来からラグジュアリーとローカル文化は密接に結びつく場合が多いからです。例えば、エルメスはパリ、フェラーリはマラネッロという場所とそこの職人が本物を表現していると語るのです。しかし、デザイナー自身の文化アイデンティに及ぶと、話はとても複雑であることに気がつきます。
そこでベルギーに住むアフリカ系フランス人のデザイナーにインタビューしてみました。ピエール・アントワンさんは、テキスタイルとファッションの両方のデザインを手がけ、アカデミックなリサーチャーでもあります。
ピエール・アントワンさん
彼に、「自分の文化とは?」と尋ねると、「文化とは選べるものです。生まれた場所でも血でもDNAでもありません」ときっぱりと答えます。目に見えない経験や自分が属したいと思う文化が「自分の文化」になる。彼がこう話すのは、それなりの背景があります。
アントワンさん自身は、フランスとアイボリーコーストのミックスです。ただ、その前を辿ると西アフリカのセネガルに行き着きます。彼はルーツを探る中で、祖先は20世紀前半、フランスの植民地であったセネガルの外交官夫人としてパリにいたと知ります。そして、外交官とその夫人(アントワンさんの直系尊属)をとりあげた当時の新聞記事を見つけました。
パリでアフリカ衣装を着る夫人(Rabi Diop) と外交官の夫(Galandou Diouf)。新聞「Courrier de Saone-et-Loire published」の1/6ページ(1939年1月12日付け)
セネガルの外交官夫人が自宅にて自らミシンで裁縫に励み、劇場などの社交界にセネガルの衣装で出向いていたのです。それが注目されたのでしょう。メディアの記事になり、「私にはヨーロッパの服を着る理由がない」との挑戦的な言葉が紹介されています。
外交官である夫も彼女の方針を支持しますが、当時のエピソードを探っていくと、外交官はユダヤ人を迫害したナチスの傀儡政府だった仏ヴィシー政府に反対していたことが分かります。
自宅で外交官の夫(Galandou Diouf)の隣でミシンをつかって裁縫をする夫人(Rabi Diop)。新聞「Excelsior」の1/8ページ(1939年1月25日付け)
夫人の服のスタイルへの拘りが、植民地とされた国の文化アイデンティの表現だったのは明確ですが、彼女もヴィシー政府への反対も意図していたのか。それは不明です。また、植民地時代、アントワンさんの家系がフランス側に半ば立っていたことは、どの文化を支持したのかの判断を難しくします。