上出:ドキュメンタリー番組のテレビディレクターは、あるものを撮って、編集して並べ替えて、人様に見てもらう仕事です。被写体が実在する以上、映像を世に出したとき、その人によくも悪くも強い影響を与えます。取材対象とともに、僕自身もそうした「搾取」の構造に悩まされるわけですね。ドキュメンタリーの感動やメッセージを「架空の登場人物と世界」で伝えられるなら、それに越したことはありません。
北野:予算があれば、フィクションも撮ってみたいですか。現実世界に対する造詣や構造というものを理解した後、いつかはそういう映像をつくろうとしているのかな、と感じたので。
上出:最上級の映像はフィクションだという考えはあります。いまの僕はリアリティへの執着が24時間爆発している状態だから、いざフィクションをつくろうとしたときにリアリティのなさに辟易とするかもしれません。ドキュメンタリーをつくり続けると、フィクションへのハードルが上がるのはジレンマです。
撮影や編集の暴力性を自覚している
北野:これまでのインタビューを読むと、ずっと「善悪」を考えてきた人だという印象があります。
上出:メディア人の責務として、善悪の「曖昧さ」を伝えていくことが社会のためになると信じている節があるんですよ。これが善だ、これが悪だ、と決めつける思考停止が危険だし、それが世界中どの歴史をとっても不幸の源になってきたじゃないですか。
現在の主流は、多様性を認めることが「善」だというものですよね。だけど「多様性って何?」というところから本当は考えないといけない。
北野:なぜそんなフラットにものを考えられるようになったんですか?
上出:フラットな姿勢も危険ですけどね。たまたま大学で法律を学び、あらゆるものを客観視して要素に分解して考えた経験が影響したかもしれません。あるいは、10代の頃に素行がちょっと悪かったのもあるかな……。
北野:ご自身ではカメラを「暴力」ととらえていますよね。フラットな価値観の人が、あえてカメラを携えて切り込んでいく職業を選んだのが意外です。
上出:そういう意味ではやりたくなくて。フィクションに逃げたいな、とよく思うんですけども。
北野:私自身も映像メディアに出演するとき「こういう発言をしてください」と求められたり、都合よく編集で切り取られたりすることがあって、暴力的だよな、と冷静に感じることはありますね。
上出: 暴力に関してはパワーバランスに尽きるとも思います。コントロールする人間とされる人間、暴力を行使する人間と受ける人間、そこに明確な上下関係や力の差があれば、暴力というものが存在しうると思っていて。極端な話、5歳児がお父さんを殴っても、それは暴力と呼ばないわけだから。
演出や編集に関して、テレビ側がいかようにもコントールして放送できてしまう。明確にパワーと権利をもっているという意味で、それは暴力だと断定できます。だから、僕が取材をした以上、そこから先はこちらに委ねられるので、暴力として認識されるべきだろうと思っています。