米国は、10年以上、国を挙げて推進してきた。巨額の予算をつぎ込みすべての官庁がかかわるだけではなく、産業界が全面的に参画している。いまや無数のコンテンツを提供する巨大プラットフォームがいくつも存在する。英国でも2500社が33000人の協力者を得て、積極的な展開を見せる。
いずれも国力の強化のためには、国の将来を担う子どもたちへの革新的な教育が不可欠、そのためには分野横断的で探求心と独創性を養う創造的な学習プロセスの構築が必須だ、という強い危機感がある。
このような欧米の取り組みに比して、日本は大きな後れを取ってきた。
思えば、日本の若者は何ともやるせない心境にある。18歳意識調査によると、将来に希望をもっている若者は、欧米各国が90%超、中国は96%に上るのに、日本は60%にすぎない。国や社会を変えられるか、という気概に至っては、欧米、中国の60%に比べてわずかに18%という有様である。
理由は大きく三つあると思う。まずは、国益という認識が薄い点だ。オリパラのメダル争いで日本を応援する情熱も、外交防衛や経済競争になるとなえてしまう。次に奇妙な平等主義が行きわたっていることである。配分的正義が影を潜め、平均的正義ばかりが称揚される。そして第三が、日本の「失われた30年」のなかで育ってきたことだ。中国の隆盛を横目に、国のたそがれを実感せざるをえないような雰囲気で成長すれば、自信喪失もするだろう。
三つの理由に通底する根本原因がある。教育だ。
大学入試を最終目標に据えたような、「答えのある学習」「単線的で多様性のない教育」「縦割りで総合的視野を欠く教科構成」、何よりも「面白さから程遠い授業」がこれまでの日本の教育の特徴である。
20年ほど前の「ゆとり教育」はもっとひどかった。総合的学習の美名の下、基礎を涵養せずに余興雑学に時間をつぶす愚策だった。さすがにこの失政は改められたものの、相変わらず決められた枠内で知識を競わせる偏差値教育が王道となっている。