建築図面をCADで描く研究から、グラフィックなインターフェースの可能性に目覚め、さらにはソ連が1957年に世界初の人工衛星を打ち上げたことで、軍事・宇宙開発の遅れに気付いた国防総省が、ARPAという研究支援機関を立ち上げてコンピューター開発に潤沢な研究費を出すようになることで、グラフィック型の戦闘機のコックピット開発などを手伝うようになったネグロポンテ教授は、コンピューターが数値計算だけでなく、利用者と視覚ばかりか聴覚や触覚まで使った対話ができれば新しいツールになることに気付いた。
そこで未来建築をイメージする研究のためのアーキテクチャー・マシン・グループを立ち上げ、ARPAから支援を受けて、声や動作や画面を指でなぞってコンピューターを操作したり、当時の最新映像装置だったビデオディスクを使って、画面に出た町の映像をナビゲーションしたりするグーグルのストリートビューの祖先のような研究を進めていた。
コンピューターを使った宇宙戦争ゲームなどはあったが、まさかコンピューターを計算以外の日常生活で役に立つと考える人はおらず、このグループの奇想天外なデモに注目が集まった。この研究室は偶然にもMITの学長室の近くにあり、ケネディ政権の科学顧問も務めたジェローム・ウィズナー学長がよく見学者を招いてくれ、引退する際に自分もここで研究したいと言い出した。そこで彼の支援を受けて、新たな研究組織を作る話が進んだ。
ジェローム・ウィズナー(Denver Post via Getty Images)
MITにはすでにコンピューターやコミュニケーション、さらにはAIを研究する研究所があり、これらの名前を使って既存の研究所への支援金を奪わないようにと厳命されて困ったネグロポンテ教授がアラン・ケイに相談したところ、「コンピューターこそ新しいメディアだ!」と、この名前を付けるようアドバイズしたという。
最初のメンバーとしては人工知能の権威のマービン・ミンスキー教授や教育心理学のシーモア・パパート教授等が選ばれ、MITのアートグループや映画や音楽の関係者も加えたユニークな研究所が立ち上がった。研究所の建物はパリのルーブル博物館の新館の設計を担当したI・M・ペイが手掛け、内壁はモンドリアンという斬新なスタイルになった。
すでにMITに出資しているアメリカの企業の出資が難しかったが、ネグロポンテ所長は21世紀にはコンピューターとコミュニケーションとコンテンツが融合すると説いて、マスメディアなどを巻き込み、ウィズナー学長のコネで、設立資金の3分の1は日本のコンピューター・家電系のメーカーが中心に出した。