「メディアラボ」の次に来るデジタル時代は?

MIT(マサチューセッツ工科大学)メディアラボ(Photo by Craig F. Walker/The Boston Globe via Getty Images)


コンピューターはメディア


メディアラボが意味していたメディアとはまさにコンピューターのことだったが、当時の通念ではコンピューターは数値計算をする機械で、それをメディアと考える人はいなかった。おまけにメディアという言葉がまだ一般的でなく、メディア学者のマーシャル・マクルーハンがテレビ時代を読み解くのに『メディアの理解』という本を出した時にも、日本ではこの言葉が一般的ではないと訳本の主タイトルには原題のサブだった「人間の拡張」という言葉が使われたぐらいだった。

マクルーハンは人間が自らの能力を拡張して外界に働きかける媒介として、言葉から車輪から宇宙船まですべてがメディアであると主張したが、人々は言葉の“内容”や、車輪の“輸送能力”については興味を抱くものの、伝える手段や媒介としてのメディアは見えないものとして意識にはのぼっていなかった。

マクルーハンはアメリカの高校の教科書作りに携わり、同じカリキュラムを本、ラジオ、テレビなどで教えるとそれぞれ教育効果に著しい違いが生じることに注目し、伝えられるメディアによってメッセージの与える効果に大きな違いがあることから、メディア自体の性質に注目するようになり、“メディアこそがメッセージ”ではないかと考えるようになった。

そうした彼の著作を読んで、コンピューターを個人の手に(それをパーソナル・コンピューターと名付けた)と考えていたアラン・ケイは、未来のコンピューターをまるで現在のiPadのようなディスプレイが全面にあるタブレット型のモデルで構想し、ダイナブック(ダイナミックに情報をやり取りできる電子本?)と考えて、イメージを絵にして研究者に働きかけた。彼こそがまずコンピューターを、仕事や遊びや学習やエンタメまで広くカバーする、本や映画やテレビなどの既存メディアに代わる新しいメディアだと最初に気付いた人だろう。


ニコラス・ネグロポンテ(Photo by Thos Robinson/Getty Images for Code-to-Learn Foundation)

メディアラボを作ったネグロポンテ教授は、ギリシャの裕福な海運王の息子としてニューヨークで生まれ、スイスで教育を受け、アーチスト(彫刻家)になりたいと親に言ったところ、まずはきちんと勉強しろと諭されてMITの建築学部に入学させられたという。

するとそこではすでに、計算主流だったコンピューターにグラフィック端末が付けられ、デザインツール(CAD)として図面を描くのに使われ始めていた。当時は冷戦の影響で、北米全域をカバーするレーダー網(SAGE)が作られ、レーダーの画面をコンピューターが制御するようになり、それを見たアイバン・サザランドという学生が、CGの元祖になるスケッチパッドという描画ソフトを作ったからだ。
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文=服部 桂

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