店は県庁のすぐそばにあり、県職員やマスコミ関係者にもファンが多い。店名の「山田いたりあん」は、岩手沿岸の山田町からとった。店の看板メニューは山田の牡蠣を使ったクリームパスタ。多い日はランチで20皿以上が出る。
「山田産カキのクリームパスタ」。山田町に店があった時から変わらない看板メニューだ
盛岡市出身の駒場さんは結婚後、妻の愛子さんの実家がある山田町に店を出した。そして山田湾の牡蠣に出会った。入り口がほぼ閉じている湖のような湾に、3本の川から雪解け水が流れ込む。透明度の高い山田湾で育った牡蠣は身がしまっていて、えぐみのないすっきりした味わいが特徴だ。
夏になると、ドラム缶で70度の湯を沸かし、牡蠣を五右衛門風呂に浸からせて、また海に戻す。そうすると、殻に栄養がとられず、身に栄養がいくという。駒場さんが使う牡蠣を生産しているのが、この道30年になる山田町の漁師、中村敏彦さん(49歳)だ。「美味しい牡蠣が育つかどうかは、漁師がいかになまけないか、出荷しない時期にどれだけ手をかけたかで決まる」と話す。
中村さんは「『今日はこれしかないよ』と不調の日があっても、アレンジして美味しく料理できるのは駒場さんが勉強熱心で腕も良いから」と語る。「中村さんをはじめ、山田町の漁師やお客さんたちに育てられた」と駒場さん。山田いたりあんは山田の人たちから愛され、常連客も増えていた。
静かな山田湾が姿を変えて町を襲った
そして、10年前の3月11日。新築した店の移転工事が完了したその日に、店ごと津波に押し流された。店は、海から50メートルの場所にあった。駒場さんは水にのまれ、2階のベランダにはい上がったところで気を失った。
意識を取り戻したときには夜になっていた。町が燃えていた。店の隣にあった銀行の支店長に助けられ、別の町の病院に入院した。肋骨が4本折れていた。地元の新聞には自分の死亡の知らせが載っていた。4日後のオープンに向けて、一緒に準備していた妻の愛子さんは、行方がわからなかった。
3月も下旬になってから、愛子さんの遺体が見つかった。まだ30歳だった。小学生と保育園の娘たちの成長を楽しみにしていた。駒場さんは「どこかで無事に生きていると信じていた幼い娘二人に伝えるのが、何よりもつらかった」と振り返る。
一方、あの日、漁師の中村さんは山田湾の真ん中で「明神丸」に乗っていた。「ドドドド……という音がしたので、エンジンの故障かと思ってエンジンを切ったら、海が鳴っていた」。船上から、消防団員が水門を閉めるようすが見えた。陸に戻ろうと思ったが、引き波で底が浅くなっていた。
山田湾の中にあった4000台の牡蠣棚のいかだはすべて流され、壊滅した。船の上から、ただ見つめることしかできなかった。いかだを避けるように船を操縦して、次の日に陸に上がると、自宅は流されていた。