今年1月には弟子もできた。滋賀県出身の中島崇さん(47歳)。地域おこし協力隊として山田町に来ていたが、山田湾の牡蠣に魅了された。中村さんとともに毎朝、「明神丸」に乗り込み、牡蠣棚を回る。
「山田の牡蠣に惚れましたね。自然相手の仕事は大変だけど、海の上で仕事するのは気持ちがいい」。中村さんは「師匠」と呼ばれると照れくさそうだが、2歳下の弟子とは船上でも陸でも良いコンビだ。
一方の駒場さんは今夏、岩手県葛巻町にある道の駅の中に、新たに別の店をオープンさせる。震災後、「食の力で岩手に貢献したい」と、食育の授業や、洋風の災害食の作り方の指導に取り組んできた。葛巻町の中学校で出張授業をした縁で、役場から「道の駅に店を出してもらえないか」と声がかかった。駒場さんは「新しい店でも、山田産の牡蠣を使ったメニューを楽しんでもらいたい」と話す。
支えてくれるパートナーもできた。震災後に出会った幸枝さん。夫と死別し、二人の息子がいるという境遇も似ていた。幸枝さんは店で接客に立ち、お客さんからも愛されている。
駒場さん(左)と幸枝さん(右)二人の小さなイタリア料理店の前で
休みの日は、幸枝さんも常連客とともに、駒場さんが企画する「大人の遠足」に出る。岩手県内の生産者のもとを訪ね、食材やワインの勉強を重ねている。「生産者のみなさんから直接、話を聞いて学ぶと、自信を持ってお客さんに説明できるので楽しい」。みんなが1台に乗って遠足に行けるように、バスを運転できる免許をとろうとひそかにたくらんでいる。
10年前に店があった山田町の一帯は、今も更地のままだ。山田湾のほうを見て、駒場さんが「ワイン120本が詰まったワインセラーが2つ、海に沈んでいる。相当熟成されてるぞ」と言って笑った。
震災後、山田湾にも巨大な防潮堤がそびえ立つ。まもなく海は見えなくなる
建物の3階ほどの高さがある巨大な防潮堤の建設が進み、まるで町と海は遮断されるかのようだ。漁師の中村さんは「たしかに町は津波から守られるのかもしれないが、海が遠くなったように感じる。海岸を散歩する年寄りや、海辺で遊ぶ子どもの姿が見られなくなった」と寂しそうに話す。
海が奪い去ったものは、あまりにも大きい。
だが、いまも海に生かされている。
これからもここで、海とともに生きていく。
岩手・山田湾の牡蠣は、この春もまた、旬を迎えている。
春の山田湾を「明神丸」で進む中村さん(右)と弟子の中島さん(左)
連載:ポジティブ・ジャーナリズムの現場から
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