そもそも江戸時代より脈々と続くこれらの屋台を支えてきた職人たちの技術が祭りと結びつき、美と巧緻を追求していまに息づく飛騨の匠にもつながっているのだから。そんなふうに飛騨人はたくましく生きてきたのだと感心しつつも、あまりの寒さに足早に宿へ戻った。
翌日は、前日の寒さが嘘のような晴天に恵まれた。屋台の点検や操作の確認などのために午前9時から1時間だけ、氏子さんたちは屋台を曳くことができたとのこと。私は朝ごはんをゆっくり摂っていたため残念なことにその様子を見ることはできなかったが、氏子さんたちは「2年ぶりに曳けた!」「やっぱり動く屋台は良いな」などと感慨深げに話していたとのことだった。
晴天の中、地元の人に曳かれ、蔵に納められる屋台
その後、町なかで、祭りの半纏に身を包んだ氏子さんたちとは何度もすれ違った。酒にはめっぽう強いと言われる飛騨人にとって、祭りにつきものの飲酒も禁止され、そのなかでの不完全燃焼感は否めないだろうなと思いつつ、脳裏に浮かんだのは、そもそも祭りとは誰のためのものだったのかという考えだった。
答えは、いたってシンプルだった。「地域の人のため」なのだ。祭りとは、本来、地域の五穀豊穣、厄病退散、平安安寧を願うものなのだ。それを「観光客が多数集まることを避けるため」に中止したり、神様が氏子のところを巡るのを省略したり、屋台の曳きまわしを中止したのは、本末転倒、あまりにも地域の人々には申し訳ないことなのだ。
一部の屋台では、前述のように1日だけでなく、2日間とも、わずかな時間、点検のために(もしかしたら、それと称して)狭い範囲ながら曳いたと聞き、そこに飛騨人の心意気を感じた。
何より、日に照らされ堂々と輝いている屋台は本当に美しく、静謐ななかでも圧倒的な存在感を放っていた。観光客のための屋台ではなく、地域のための屋台として屋台蔵の重い扉が開けられ、屹立していた。
ユネスコ無形文化遺産にも登録されている、豪華絢爛な屋台
それらを目の前にしながら、観光客の姿ばかりが目に入るであろう、いつもの祭りの景色とはまったく違う、もしかしたらこれが本物の祭りの姿ではないだろうかと思わせる光景がそこにはあった。
この町に降り立ったとき、私が最初に感じた「寂しさ」とは、単に人が少ないという寂しさだけではなく、地域の伝統の祭りが観光という視点から奪われることへの、地域住民の寂しさだったのではないかと思った。
とはいえ、そこにはまた、観光立市として生きる地域ならではの現実への葛藤など複雑な感情も絡み合っている。
この2年間、地域の人たちは、観光客が新型コロナウイルスを運んでくるかもしれない、でも彼らが来ないと暮らしが守れなくなるとか、祭りで密になり、飲酒で自分たちもクラスターになるかもしれないなど、さまざまな想いや不安を通じ、観光地としての在り方はもちろん、本来の祭りの意味や地域住民のための祭りについて問い直したのではないだろうか。