災害という非日常のなかでの学び
津波が押し寄せ、女川町の街は跡形もなくなくなった
元中学校の国語教員で被災地での教育や語り部活動をしている佐藤敏郎さんは、「小さな命の意味を考える会」代表を務め、全国で講演活動を行っている人物だ。この3月で東日本大震災から10年。テレビや新聞など多くのメディアでも佐藤さんの声を聞いた。
「3月11日は卒業式の前日でした。災害はどんな時でもやってきます。そして大災害は日常を奪います」
東日本大震災の際、佐藤さんは宮城県女川町の中学校に勤務していた。女川町は海に面した小さな街で、リアス式海岸の豊かな港があった。18メートルの高さの津波が到達し、建物の8割、人口の1割が犠牲になった。道路も家もない。もちろん制服もない。そんな避難所での生活を続けるなかで学校は再開された。
「この状況に子どもたちをどう向き合わせればよいのか。それを考えるとき、大人がどう向き合うか、世の中がどう向き合うかが問われていると思いました」
東日本大震災から2年後、中学校の「3.11に向き合う集会」で生徒たちに話をする佐藤敏郎さん
学校が再開されたその年の4月、中学3年生の国語の教科書の1ページ目に掲載されていた歌詞。中島みゆきの「永久欠番」は、次のような2行で始まる。
どんな立場の人であろうと
いつかはこの世におさらばをする
毎年、授業で使っていた教科書に載るその歌詞が、2011年4月には違う意味を持って生徒1人1人に迫ったのだという。
もちろん、その授業を行わなければならない教師である佐藤さんもその1人だった。次女のみずほさんが通っていた大川小学校では、生徒と教員を合わせ84名が犠牲になった。みずほさんもその中にいた。
佐藤さんは、言葉にすること、語ることの意味を次のように捉えている。
「あの日を語ることは大事なことですが、辛いことです。でも、言葉にして語るうちに、必ずみんな未来を語り始めます。私は、『あの日を語ることは、未来を語ること』だと思っています」
コロナ禍による数多くの制限の中で、子どもたちはどんな思いで過ごしてきたのだろうか。そして、大人である私たちは、どんな不安を抱え、何を感じて日々を暮らしてきたのか。私たちは改めて自分自身の体験を振り返り、捉え直し、言葉にできない子どもたちの思いに寄り添うところからはじめなければならない。