このように、因果関係をひとつずつ検証すればすぐに実態が明らかになるようなことでも、ともすると人々はこうしたアプローチを取らずに、目前の物事だけを直感的かつ感情的に捉えて、誤った理解をしてしまうことがしばしばある。
こうした「思考停止」は、単に陰謀論やフェイクニュースを信じてしまうことだけに飽き足らず、前回のコラムで扱ったような、間違ったカリスマに扇動される危険性も孕んでいる。
我々は決して「自立した存在」などではない
では、ある現象を断片的な情報だけで盲信的に信じてしまうことを避けるには、どうしたらいいのか。
1つのアプローチとして、現象を科学で解き明かす方法がある。科学には再現性がある。つまり、よくわからない現象に対して、現象を要素に分解して数値化し、客観的な答えを見出すことができるということだ。人々の直感や感情といった非科学的な判断なしに、現象の本質に迫ることができるだろう。
ところが一方で、その科学が万能であると信じてしまうことも危険だ。合理的かつ生産性を求める科学の尺度のみで物事を捉えるだけでは、逆に本質を見失ってしまうこともあるからだ。
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例えば、社会をより合理的にかつ生産的にするには、社会的弱者を切り捨てるべきだ──という考え方は全く間違っている。しかし、ナチスドイツは、ユダヤ人のホロコーストの前にまず障害者の虐殺を行い、その根拠を社会の合理性、生産性の追求だとした。科学的な見地を間違った方法で利用し、人々を信じ込ませる。そうした恐ろしさも科学は兼ね備えていることに注意しなければならない。
つまり、どんなことであっても、自分の考えや信条は「常に正しい」と信じ込んでしまう硬直した姿勢そのものが、すでに危険を孕んでいるということだ。その結果として、ときに本質や実態を見ない誤った理解に繋がってしまうかもしれないことは、覚えておくべきだろう。
前述したハイデガーの「あらゆる存在は、周囲の他の存在との関係性の上に成り立っている」という存在論は、自分自身という「存在」についても同じことが言える。私たち人間ひとりひとりも、決して「自立した存在」などではなく、周囲の存在に影響されながら生かされている存在だ。しかし、人はともすると、自分は1人で自立していて、しかも自分自身を完璧にコントロールできると思い込んでいる。そんな自分の考えは常に正しいのだと思い込み、それを盲信してしまったら、「思考停止」に陥ることになる。
大切なのは、自分自身と周囲の存在の関係性を常に考えることだ。自分は常に正しいという認識はあまり持たないほうがいいだろう。常に他者を意識し、自分の行動や物事の捉え方が正しいかどうかを自身に問いかけ続けること、そうした姿勢そのものが精神性を磨くということに他ならない。その「態度」こそが、いたるところにある『百匹目の猿現象』に隠された事実を見極める鍵となるのではないだろうか。
はたの・しょう◎作家。1959年、大阪府生まれ。一橋大学法学部卒業後、農林中央金庫、野村投資顧問、クレディ・スイス投資顧問、日興アセットマネジメントなど国内外の金融機関でファンドマネージャーとして活躍する。著書に「銭の戦争」シリーズ、『メガバンク最終決戦』など。本誌巻末にて、『バタフライ・ドクトリン』を連載中。『ダブルエージェント 明智光秀』『メガバンク 宣戦布告』『メガバンク 絶体絶命』『メガバンク 最後通牒』(すべて幻冬舎文庫)も発売中。