2016年夏、僕はブルーアッシュ市を訪れた。週末だったこともあり、ちょうど、地元のリトルリーグの試合中で、選手の親がクーラーボックスやキャンプ用の椅子を手にしながら、球場へ向かって歩いて行くアメリカの草野球場でよく見かける光景がそこにもあった。
まず目にしたのは、球場の外野のフェンスの裏側。そこにはしっかりとクロスリー・フィールドと書かれていた。一塁側の歩道に小さなチケット・ブースがあり、そこには記念銘板が二つ。一つにはクロスリー・フィールドのレプリカ球場が1988年7月11日に完成したこと、もう一つには、これがフィンドレー・ストリートとウエスタン・アベニューの角にあったブースであり、1986年にルーバースの母親によって寄贈されたことが印されていた。
レフト側には、クロスリー・フィールドのレプリカの大型のスコアボードがあった。バッティング・オーダー、審判、他球場のスコアは、この球場で最終試合が行われた1970年6月24日のままだった。
スコアボードの前のフィールドは、傾斜になっていた。実は、これもクロスリー・フィールドの外野をそっくりに真似したものだ。大規模な洪水による被害にたびたび見舞われたクロスリー・フィールドでは、水没した際に土砂が流れ込み、外野のフェンス際に傾斜ができてしまった。しかし、シュワブは、この傾斜を平らに整備せず、そのまま残した。
やがてこの傾斜は、球場の名物となり、「テラス」と呼ばれるようになった。1935年5月28日、クロスリー・フィールドでフライボールを追っていたベーブ・ルースがこの「テラス」に躓き、顔面から転倒したのだが、その数日後、ルースはそれを理由に引退を決意したと言われている。
三塁側には、クロスリー・フィールドで使用されていた座席があり、今でも使用されていた。市の職員が必死で集めた座席だ。そのスタンドの裏側には、この球場の開場以来、隔年で開催されているクロスリー・オールド・タイマー・ゲームに参加した元レッズの選手のサインに形取られた銘板が飾られていた。
シンシナティに最古のプロ野球球団が誕生して、今年で150年を迎えるが、シンシナティ周辺にはブルーアッシュ以外にも、この球場の生き証人と出会える場所が数多く存在する。僕はこの野球愛に満ちたこの街が大好きだ。
連載:「全米球場跡地巡り」に感じるロマン
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