クロスリー・フィールドのスコアボードは1934年にモデルチェンジされ、さらに1957年に大型ボードに取り替えられ、1970年に閉場されるまでこれが使用された。手元に1912年、1934年、1957年の3つのスコアボードの写真があるが、1912年と1934年のスコアボードのカウントは、なんと日本式のSBOの順番になっているのだ。
シュワブの考案したスコアボードは反響を呼び、他の球場でも手掛けるようになったのだが、クロスリー・フィールドのスコアボードをモデルにしたため、他の都市でもSBOのスコアボードが使用された。
シンシナティ郊外のブルーアッシュ市に、クロスリー・フィールドで1957年から1970年まで使用されたスコアボードのレプリカが設置されている場所がある。レプリカといっても、クロスリー・フィールドと全く同じ大きさの草野球球場に、本物と全く同じサイズのスコアボードがあり、しかも実際に使用されているのだ。
ここには、クロスリー・フィールドで実際に使用された客席やチケット・ボックスもある。ブルーアッシュ市にこのレプリカが誕生した裏には、ちょっとしたドラマがあるので紹介したい。
ブルーアッシュ市の職員が集めたかつてクロスリー・フィールドの客席だった座席に座る草野球選手の家族たち(著者撮影)。
ケンタッキー州ユニオン市在住のレッズ・ファン、ラリー・ルーバーズは、自分の農場にクロスリー・フィールドと全く同じ大きさのレプリカ球場を作り、彼のソフトボール球団シンシナティ・サッズの本拠地球場とした。彼はクロスリー・フィールドの取り壊し後、実際に使用されていたチケット・ブース、ダッグアウト、ロッカー・ルーム、座席、売店のサインやプラカードなどを収集し、ホンモノそっくりの球場にした。
しかし、1984年になってサッズは解散し、ルーバースも資金面の問題を抱え、農場と彼が収集した貴重な品々を次々と手放してしまった。
一方で、ブルーアッシュ市は、クロスリー・フィールドに代わるレッズの新球場の建設地の候補地となっていた。新球場は、結局ダウンタウンに建設されたリバーフロント・スタジアムになったが、市は野球場の建設計画のあった場所にクロスリー・フィールドのレプリカ球場を建設することを決めた。
レプリカ球場の建設計画が決まると、市の職員は、クロスリー・フィールドの残骸を必死に探し始めた。チケット・ブースは、幸いにもルーバースの母親が所有していた。さらに、全米3か所に散らばっていたクロスリー・フィールドの客席を探し出し、市はこれらを譲り受けることに成功した。
こうした市の熱心な活動を聞きつけた人々は、大切に保管していた球場のメモラビリアを次々と市に寄付するようになった。市は、シュワブの孫からクロスリー・フィールドの設計図を譲り受け、レプリカ球場を建設、1988年に遂にオープンしたのだ。そして、この球場で2年に一度、レッズのOBが集まるオールド・タイマー・ゲームが行われるようになった。実に地元の人々の熱意、愛情、団結力が感じられるエピソードだ。