フォーブス ジャパン ウェブ編集部編集長

稲木ジョージ

マニラ出身、NY在住。世界を股にかける32歳のデジタルPRコンサルタント、起業家。

日米欧を跨ぐ「インフルエンサーのインフルエンサー」が、デジタルの最前線を爆速で駆け抜ける──。

この人物を語るには枕詞が多すぎる。かつて「アメリカンアパレル」渋谷店を世界一の売り上げに導いた敏腕PR。いまは独立し、NYを拠点に活躍するデジタルPRコンサルタント。国内外の著名人のインスタグラムに、友達として屈託のない笑顔で頻繁に登場する「ジョージ」。

「引き出しが多く、消化しにくいキャラクターですが、ぜひ今後ともお付き合いできれば」。初めて会った後、ジョージから届いたメールだ。「引き出しが多い」と自ら断言できるビジネスパーソンはそう多くないだろう。その自信は決してハッタリではない。彼こそが、「インフルエンサー」という現象を育てた張本人だからだ。

このインフルエンサー誕生物語を始めるには、まず、時計の針を2010年に戻してみたい。

「私はインスタグラマーよ」

インスタグラムがアップルのApp Storeに初めて登場したのは2010年10月。スクエアにトリミングした写真を主体としたスタイリッシュなSNSは米国の感度の高い層から人気に火がつき、1年足らずの11年9月までに登録者が1000万人に達していた。

そのころ日本ではフェイスブックとツイッターが全盛。当時、アメリカンアパレルの日本法人でPRを担当していたジョージは、米国法人から個人でツイッターのアカウントを持つように指示された。「正直、面倒くさ!と思っていたんですよ」と振り返る。

しかし実際始めてみると、個人が思うままに表現でき、メディアを通じてではなく不特定多数の個人と直接つながることができる新鮮さに気づいた。これによりジョージは「個人の影響力がメディアを超える時代」の到来を予期し始めるようになる。

運命的な出会いが訪れたのは、13年、アメリカンアパレルを退社し、PR会社に移っていたジョージが出席した、あるブランドのパーティでのことだ。

LAから来日し、セレブリティ然と振る舞っていた女性がこう自己紹介したのだ。「私はインスタグラマーよ」。聞き慣れないワードだった。「インスタグラム上でワンミリオンのフォロワーがいるの」。100万人のフォロワーがいれば日本に招待してもらえるのか。その事実に衝撃を受けた。「これだ!」

まさにその日から、ジョージはこう名乗り始めた。「デジタルPR」。自分で自分の肩書きを名付け、自身の仕事を定義したのだ。「アメリカで流行っている、イコール、日本にも絶対来るからね」

翌14年、インスタグラムが日本語アカウントを開設し、国内でも浸透していくこととなる。若者を中心にライフスタイルすら変えたといわれるその爆発的な勢いは、17年に流行語大賞を受賞した「インスタ映え」の例を出すまでもないだろう。

「なんか言ってらっしゃるわ、この子」。いまでこそ「デジタルPR」を生業とする企業や個人は多いが、当時は聞き慣れない肩書き。ファッションPR業界内では異質の存在として扱われた。

しかしそこにはジョージの戦略があった。

文=林 亜季 写真=アーロン・コトフスキー

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