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2019.10.12 12:00

デジタルPR・稲木ジョージが「インフルエンサーのインフルエンサー」になるまで

稲木ジョージ


稲木ジョージは、1987年にマニラで生まれ、フィリピン人の祖母のもとで育てられた。同じくフィリピン人の母に呼ばれ、日本に移り住んだのは9歳のときだ。愛知県の公立小学校に転校してきたとき、ジョージは日本語がわからなかったという。
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「まずは3カ月辛抱」激動の半生

「国に帰れ!外人!」

来日早々、いじめの洗礼を受けた。このころ、彼が決意したのは、「辛い境遇でも、まずは3カ月辛抱してみる」ということだった。
 
鼻水を垂らし、泣きながら、「3カ月後、まだいじめられていたら転校しよう」と、踏ん張ることにした。徐々にキャラクターの面白さが周囲に受け入れられるようになり、3カ月後、いじめはなくなっていた。
 
自分で学費を稼ぎながら、2010年に大学を卒業。上京し、ファッションの仕事に就きたいと奮闘したが、時はリーマンショック後の就職難。友人のつてでアメリカンアパレル渋谷店のアルバイト販売員になった。時給900円。
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このときジョージが必死に頭を捻り続けたのが、「どうしたらほかのブランドと差別化できるか」である。この「差別化」への試行錯誤が見込まれ、23歳の若さでPR担当に昇進した。
 
ジョージのアイデアのひとつが、ロゴ入りのトートバッグを店頭の目立つ場所に置き、前面に押し出したことだ。多種多様な商品がある中で、「特に日本人は『これを買いに来た』というお土産的な商品がないとなかなか店舗に足を運んでもらえない」という感覚があった。
 
予想は的中した。他国ではほとんど売れていないバッグが飛ぶように売れ、渋谷店は世界全250店舗の中で最高の売り上げを記録した。当時、「アメアパのバッグ」を提げた若者が街を闊歩する光景を覚えている人も多いだろう。
 
またガールズカルチャーを牽引する「東京ガールズコレクション」をテレビで見るなり「アメリカンアパレルも参加させてほしい」と電話し、初参加を実現。さらにノン・デザイナーズブランドとして初となる「Mercedes-Benz Fashion Week TOKYO」(東京コレクション)にも参戦、成功した。

同性婚を決意、NYへ
 
ところが、こうしたキャリアを白紙に戻してしまう決断をする。14年、仕事を通じて出会ったニューヨーク在住の実業家、ジェッド・ルート氏に出会うなり、インスパイアされた。影響力がある人に影響を与えてきたジョージが、「この人面白いから好き。こういう大人になりたい」と思ったのだ。

「NYで一緒に住もう」
「それって実現できるの? 日本では同性婚できないよ」
「NYではできるよ」
「OK、じゃあ、行く」

26歳上のパートナーとの同性婚を選び、拠点をNYに移したのだ。

「みんな、僕のことをゲイとして扱わないんだよね。ジョージはジョージ。性別なんて、関係なくない?」
 
とはいえ、突然の渡米は仕事上で大きな困難をもたらした。現地でPR職を探すも、日本での経験は通用しない。冷や水を浴びせられるように、こう言われるのだ。「で、NYでは誰を知っているの?」。28歳、思った以上にコネがものを言う世界だった。
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文=林 亜季 写真=アーロン・コトフスキー

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