「これさえ習得すれば、いろいろなタイプの人とずっとうまく付き合えるようになるという技がある。人を本当に理解するには、相手の立場に立って考えなければいけない。その人の肌の中に入り込み、それを身にまとって歩いて回ってみることだ」
アティカスがここで語っているのは、シンパシー(同情)ではなく、エンパシー(共感)だ。前者には賛成の意味が含まれるが、後者は相手を理解することを指す。
私たちにはアティカス・フィンチが必要だというのに、彼は一体どこにいるのだろう?
そう言っていても仕方がないので、ひとまずその役目はアーサー・ブルックスに果たしてもらうこととしよう。ブルックスは『Love Your Enemies: How Decent People Can Save America from the Culture of Contempt(敵を愛する 礼儀ある人々は米国を軽蔑の文化から救える)』の著者だ。
前回の記事でブルックスは、人々の公の場(そしてプライベート)での議論の大部分が、軽蔑を基盤としたものとなってしまったことについて語った。今回は、個人の価値観を使って全ての人にとって利益となる関係性を築く方法を説明している。
──友情と意見の相違の関係について、アリストテレスから学べることは何ですか?
アリストテレスは、意見の相違というものが、人間関係の中で避けるべきものではないことを理解していた。実際、アリストテレスにとって最高な友情の形は、便宜性や快楽ではなく、共通の美徳に基づいたものだった。そのため、健全な意見の相違によって美徳の理解が深まるのなら、それは最高の友情を培う上で重要な役割を果たす。
──意見の相違により、具体的にどのように友情が強まるのでしょうか?
意見の相違は、それ自体に本質的な価値はなく、より大きな目標に向けられなければならない。私たちが共通の道徳的目標(例えば社会で疎外されている人たちへの機会を増やすことなど)について同意したならば、その共通目標をどのように達成するかについての意見の不一致により、友情が強化される。
友人とアイデアを試し、相手の考え方について尋ねることで、共通の道徳的目標を達成する最善の方法に対する理解が深まり、徳をもってして相手と親しくなるという、友情の主な目的を達成できる。