退路を断ち、小出監督にすがった若き頃の選択|高橋尚子 #30UNDER30

スポーツキャスター 高橋尚子


そうして徐々に力がついて、オリンピックが現実的な目標になってきたのは1997年のこと。小出監督が積水化学に移られて、私も所属が変わった時期です。同じチームにいた鈴木博美選手は、 一緒にその年の世界陸上アテネ大会の代表選手に選ばれていました。私は5000m、鈴木さんはフルマラソン。大会に向けて、もう1人の後輩と3人でアメリカの2700mの高地で合宿をしたのですが、監督は1人しかいない。だから、メニューがずっとフルマラソンの練習だったんですよ(苦笑)。

私はずっと鈴木さんの30km走のペースメーカーをしていて、トラックでの練習は1回だけ。「これで5000m走れるのかな」と思っていたら、案の定、大会では13位。でも、鈴木さんが金メダルを獲ったんです。一緒に練習をしていたので、それがすごくうれしくて。

同時に、「自分も4位くらいには入れたかもしれない」と思った。そのときから「私もマラソンを走ってみたい」「大きな大会で金メダルを獲りたい」と漠然と考えるようになりました。

このときはまだ、山の上の方の雲が晴れてきて、頂上が見え始めたかなといったところ。次の年のアジア大会で、気温30度以上、湿度90%の悪条件で日本記録を4分以上更新して優勝したときに、初めて「これだったらオリンピック狙えるぞ」と、頂上まで道がつながった感じがしました。そこからはまた、頂上に行くためにはいつまでに何をしたらいいのか、どうなっていたらいいのかと、遠い目標から逆算して、近い目標を立てて達成していく。その繰り返しですね。

「めちゃくちゃな人」だった小出監督に、それでもついて行った理由



だから、オリンピックの金メダルも世界記録の更新も、今の私がいるのは小出監督のおかげです。めちゃくちゃですけどね、監督は(笑)。でも、やっぱり人生の転機であり、一番の価値があったことは、小出監督との出会いだと思います。それくらい、自分にとって大きなことだった。

小出監督のすごいところは、親身になってくれるところ。チームをひと括りにするのではなくて、メンバーの一人ひとりに向き合って、練習メニューだけじゃなく、普段の声かけでもすごく親身になってくれる。

私は両親に陸上をしていることをあまり賛成されていなかったのですが、監督は「伸ばす」とか「強くする」だけじゃなくて、「おまえはすごい」「世界一になれる」と、褒めて、気持ちを前向きにさせてくれました。生き方を受け入れてくれたような感覚でしょうか。だからこそ監督は多くの人に愛されたのだろうな、と思います。
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文=朽木誠一郎 写真=小田駿一 ヘアメイク=小森真樹(337inc.)

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