なぜこれほど多くの人々が「どうでもいい仕事」を行い、資本主義社会はそれに対価を払い続けているのか。グレーバーがエッセーを基に2018年に上梓した著書『ブルシット・ジョブズ―どうでもいい仕事の理論』からエッセーと仕事の例を中心に一部を紹介する(日本語版は、岩波書店より19年末刊行予定)。
1930年、経済学者のジョン・メイナード・ケインズは20世紀末までにはテクノロジーの進歩によって欧米諸国で週15時間労働を達成すると予測した。しかし、そうはならなかった。技術的に不可能だったからではない。
米国では、製造業や農業部門の労働者数が劇的に減少し、代わりに専門家、管理職、事務系、営業、そしてサービス従業者らが雇用の4分の1から4分の3へと急成長した。つまり、予想通り生産的な仕事の多くは自動化されたのだ。
しかし世の中には金融サービスやテレマーケティングなどの新しい業界が作られ、企業法務、学校管理事務や健康管理事務、人事、広報などがかつてないほど拡大し、管理系部門が急増していった。さらに、業界の事務系、技術系、セキュリティ系サポートなどの仕事も加わった。人々は内心必要がないと思っている作業に時間を費やし、道徳的、精神的な傷を負っている。そのような仕事を「どうでもいい仕事」と呼ぶことを提案する。
どうでもいい仕事は、人々を働かせるために意味のない仕事を誰かが作り続けているようなもので、それは社会主義国家で起きても、資本主義では市場競争によって解決されるべき問題だった。
しかし、企業は生産現場で容赦なく人員削減を図る一方、月給取りの事務職員を増やした。多くの人は事務作業の負担が増えていると感じるが、実質上は15時間労働のままで、残りの時間を自己啓発セミナーの企画や参加、facebookの更新、動画ダウンロードなどに費やしている。
この現象は経済的理由ではなく、道徳的、政治的なもののために起きている。仕事自体が道徳的価値であり、起きている間のほとんどの時間、何かしらの厳しい仕事に自らを従事させる気のない者は何の報酬にも値しないという感覚は、支配階級にとって非常に好都合だからだ。
私は、世の中に意義のある貢献をしていると信じ切っている人に対して、それは誤解だ、と言うつもりなどない。しかし、自分の仕事に意味がないともうすでに思っている人々はどうだろう。