普段こそこそと休んでいるだけに、産休や育休という会社を堂々と長期間休める唯一無二の機会はさぞ楽しかろうと思っていたが、かといってイタリアに行けるわけでもなく、無事に出産したらしたで家に籠もりっきりで、24時間おっぱいフル稼働。
そんな先の見えないトンネルの中にいるような日々に、突然、イタリアから大きな茶封筒が届いた。お世辞にも達筆とはいえない丸っこくて雑な文字は、どこかで見たことがあるような……。そうだ、やっぱりそうだ! クラウディアの字だ!
なにやらでこぼことした中身が浮き出ている茶封筒の封をおそるおそる開けると、入っていたのはまるでぬいぐるみが着るような小さな小さな産着。しかしこの産着が、クッション代わりに使われていることに気づくのに、時間はかからなかった。続いてゴロゴロと転がり落ちてきたのは……、なんと栗であった。
ああ、カスターニャだ、クラウディアの裏山で採れたイタリアの生の栗だ! イタリアから1週間以上かけて旅してきた、小さくて不揃いな山栗のひとつひとつの感触を確かめながら、私はクラウディアの家で過ごした日々に思いを馳せた。
和栗ではかなわない、イタリア栗の魅力
話は少しさかのぼって、これより1年前、ちょうど同じ晩秋の頃。クラウディアの夫のマリオが集めてくる名残の栗を、私たちは暖炉の中で焼き栗にして毎日のように食べていた。
イタリアで最も一般的な栗は「カスターニャ」といい、日本の品種よりも小粒だが、焼き栗にすると格別においしく、街の広場にはカルダロスタという焼き栗の屋台が出る。栗本来の甘さと香ばしさがぎゅっと凝縮された味わい、こればっかりは大ぶりな和栗では決してかなわない、イタリア栗ならではの魅力だ。
「そんなに栗が好きなら、栗のお菓子つくってあげる!」
栗好きの私を喜ばせようと、クラウディアが古いレシピの山を引っ張り出して来た。なんとまあ、大事にとってあることか。彼女の独特な文字で書かれたレシピノート、その中に無造作に挟まれた雑誌の切り抜きやメモが、後から後からあふれ出てくる。
「えーっと、どこいっちゃったかしら……。あ、あった、これだわ。ほら、トルタ・ディ・カスターニェ!」
レシピを走り書きしたしわくちゃの紙を、ごしごしと手で伸ばしている。トルタ・デッラ・カスターニャ。そうか、栗のケーキね。大好物の栗のレシピだというのに、私がすぐに飛びつく気になれないのには、理由があった。
イタリアの山村ではあちこちで、毎年秋になると「フェスタ・ディ・カスターニャ」(栗祭り)が開催される。祭りといったって、村の広場で農家のおばさんが手づくりの栗菓子や栗料理を振る舞うというものだが、そのメニューがすごい。栗のクレープ、栗のポレンタ、栗のニョッキ、栗のパスタまである。
初めてイタリアに来た年に、この栗祭りに喜び勇んで出かけた私は、もちろん全種類を片っ端から味見したが、どれもこれも想像していたような栗の風味もしなければ、栗の片鱗すら認識できなかった。
その理由は、彼らが使っているのは栗ではなくて「栗の粉」で、毎年秋に収穫した栗を砕いて、製粉したものだったからだ。考えてみれば、こうした山村部の人たちにとって、本来、栗は1年に1度、旬のものとして愛でるものではなく、これから訪れる長い冬を乗り切るための貴重な保存食だったのだ。貧しい時代に生まれた立派な食文化なわけだが、栗好きにはなんとも言えず残念だった。
そんなわけで、クラウディアの言う「栗のケーキ」も、今ひとつ気乗りしないのが正直なところだった。
「でもね、これ、すんごくおいしいんだけど、私も遠い昔につくったきりなのよ。だってえらく手間がかかるんだもの」