これは昭和の流行作家、谷譲次こと長谷川海太郎が書いた紀行エッセイ「踊る地平線」(昭和4年刊)の冒頭の一節だ。谷は続けて書いている。
“「東京―モスコウ」と朱線のはいった黄色い切符を示したとき、ちょっと儀式張って、善きほほえみとともに鋏を入れてくれた改札係の顔。若きかれのうえに祝福あれ!”
いささか時代がかった高揚感あふれる筆致も、これが昭和初期、最速で欧州と日本を結ぶシベリア横断鉄道と接続された、国際列車の東京駅での乗車シーンであり、当時の読者は胸躍らせながら読んだに違いない。この時期、確かに「東京発モスクワ行き」という国際列車の直通切符が発行されていたのである。
1枚の切符でモスクワやパリまで
シベリア横断鉄道は、極東ロシアの日本海に面した港町、ウラジオストクから約9300キロ離れたモスクワまで約1週間かけて走る世界最長の大陸横断鉄道だ。
モスクワからウラジオストクまで、当時の清国経由の東清鉄道を通じた全線が開通したのは明治36年(1903年)のこと。その後、明治45年(1912年)に、欧亜連絡国際列車の運転が開始され、毎週金曜夜、東京駅から金ヶ崎(現敦賀港)駅行きが出発。敦賀からはウラジオストク航路、シベリア鉄道へと乗り継ぎ、モスクワやパリまで1枚の切符で行くことができるようになった。
現在のウラジオストク駅の駅舎は1912年、モスクワのシベリア鉄道終着駅のヤロスラフヴリ駅を模して建てられたロシア洋式の建築
また、「踊る地平線」が刊行された頃は、シベリア横断鉄道へと乗り継ぐには3つのルートがあった。谷譲次のように東京から下関へ出て釜山に渡り、朝鮮鉄道および満鉄を経由してシベリア鉄道に接続するルート。下関から大連に渡って満鉄経由となるルート。そして前述の敦賀から定期航路でウラジオストクに渡り、シベリア鉄道に連絡するルートである。
戦後は、ウラジオストクが軍港として閉鎖されていたことから、横浜から定期航路が結ばれていたナホトカが、日本人にとってのシベリア横断鉄道の始発駅だった時期もあった。
五木寛之の「青年は荒野をめざす」の主人公のように、1960年代から70年代にかけて、多くの若者が欧州行きの格安渡航手段としてこのルートを利用した。その後、ソ連の崩壊によって、再び始発駅はウラジオストクに戻り、今日に至っている。
ハバロフスク経由のシベリア横断鉄道が開通したのは1916年
このような歴史をたどってきたシベリア横断鉄道は、現在、どんな姿をしているのだろうか。当時のイメージとは大きく変わり、最近、車両はリニューアルされ、乗り心地も快適になっている。とはいえ、150時間(6泊7日)をかけてモスクワまで乗車する人は、ロシア人も含めてそれほど多くはない。ロシア国内を安い運賃でLCCが飛び交う時代となっているからだ。
でも、もし、夜行寝台でひと晩きりのシベリア横断鉄道の旅をプチ体験できるとしたら、乗ってみたいと思う人もいるのではないだろうか。そこには、日本ではもうほぼ絶滅してしまった食堂車も待っている。