ロシア人が、ユーラシア大陸のはずれにあるウラジオストクまではるばるやって来て、この街の建設を始めたのは1860年。一方、同時期に、1855年の日露和親条約によって長崎、下田、函館の3港が開かれ、ロシア船の日本への来航は自由になっており、日本からも多くの人がウラジオストクに渡航を始めている。
それらの日本人は、大工や理髪師、雑貨商など、ウラジオストクの新都市建設で不足していたロシア人の身の回りの世話に役に立つ職種の人々が多かったという。「からゆきさん」と呼ばれる海外の娼館で働く女性たちもいた。モスクワから9300kmも離れたこの地には、ロシア人の女性は少なかったのだ。
そして1876(明治9)年、日本はウラジオストクに貿易事務所を開設。以降、続々と日本人が事業開拓のために渡っている。日露戦争(1904〜05年)もあり、その数は少し減ったが、戦争が終わると、再び増え始め、ピーク時の1919年には在留登録だけで5915人という邦人がいたという記録もある。
嘉納治五郎の像と与謝野晶子の記念碑
19世紀から20世紀にかけての約50年間に実在した、日本人ゆかりの場所を訪ねてみたいという旅行者に役立つ格好の街歩きマップがある。「浦潮旧日本人街散策マップ~日本にゆかりのあるウラジオストクの名所・旧跡巡り~」(2011年7月発行)だ。日本人とウラジオストクの歴史を振り返りながら、興味深いスポットを紹介しよう。
日本貿易事務所の跡地に1916年に建てられた旧日本国総領事館
まずこの優美なクラシック建築は、旧日本国総領事館だ。石造りのギリシア式建築で、現在は沿海地方裁判所となっている。
当時の代表的な在留邦人として知られていたのが、1892年に日用雑貨輸出商としてウラジオストクに渡り、1899年、この地に「堀江商店」を開業した堀江直造である。他にも日本人経営の商店や飲食店、銭湯、写真館があった。
堀江商店は現在のパグラニーチナヤ通りにあり、周辺は日本人が多く住んでいた
6000人もの日本人が暮らしていたので、子弟の教育のための日本人小学校もあった。1922年当時、生徒数は256人を数えたという。
現地で身を立てようとした日本人だけでなく、著名人もウラジオストクを訪れている。たとえば、「日本近代小説の開祖」と称される明治を代表する文人のひとり、二葉亭四迷。彼は東京外国語学校でロシア語を学んだ後、1902年に一時ウラジオストクに滞在し、現地のロシア人と交流している。
ウラジオストクには、中国語や日本語、モンゴル語、満州語、朝鮮語などを学べる極東で最初の高等教育機関である東洋学院が1899年に開校している。当時からウラジオストクはロシアにおける東洋学の中心地だったのだ。