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2018.07.02 08:00

2人の億万長者を輩出 「常勝ファンド」の流儀


黒人であることの現実
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ビスタの常勝は、莫大な個人的利益にもつながっている。推定純資産額44億ドルのスミスはいまや、人気タレント、オプラ・ウィンフリーをもしのぐ、米国で最も裕福な黒人だ。ビスタにはもう一人ビリオネアがいる。同社社長で非凡なディールメーカー、ブライアン・シェス(42)だ。シェスの資産は推定20億ドルに上る。

15年にスミスがビリオネアであることを本誌が暴露して以来、スミスに関するニュースは途切れることを知らない。しかし、スミスもシェスも、これまでビスタの秘密の「レシピ」について掘り下げて語ることはなかった。このレシピは、投資家にとって、あるいは起業家や経営者にとっても学ぶべきことが多い。

スミスはこう言うのだ。
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「私たちは、他のだれもやっていないことをやっているんです」

紙の上で見ると、ロバート・スミスのこれまでの道のりは、典型的な米国流の成功物語だ。コロラド州民の4代目として生まれたスミスの両親はいずれも、博士号を持ち、デンバーの学校の校長を務め、家庭では教育を第一に考えていた。

「私たちは2人の息子に、目標を見つけたら、やり通す必要があると教えました」

スミスの母親のシルビアは語る。

「ロバートは、学業でよい成績を収めるためには、予習、努力、そして一心に取り組むことが鍵だと理解していました」

スミスは1981年、化学工学を学ぶためにコーネル大学に進学。勉学に励む傍ら、夏休みには地元にあるベル研究所で働いた。高校生のときに粘り強く売り込みの電話をかけて獲得した、大学生向けのインターンシップだった。

85年にコーネル大学を卒業したスミスは、エンジニアの職に就いた。最初はニューヨーク州のタイヤメーカー、次にペンシルベニア州の工業用ガスの会社に勤め、90年に転職したクラフト・ゼネラル・フーズではコーヒーメーカーの技術開発に携わり、2つの特許を取得している。92年、スミスはコロンビア大学ビジネススクールに入学。テクノロジー革命が広がるなか、後に非常に役に立つことになる種類のスキルを手際よく身に付けていった。

だが同時に、スミスの立身出世は極めて異例でもあった。スミスは、米国で155番目、世界では480番目に裕福な人物になったが、その現在ですら、常に人種差別に直面しているという。

最近、ニューヨーク市内で、投資銀行の上級幹部一人を含むウォール街の重役グループと夕食をともにした際、スミスが勘定を支払おうとすると前出の銀行家は声をあげて笑いながらこう言ったという。

「黒人のきみにおごってもらうわけにはいかないよ」

意図した差別かどうかにかかわらず、こうした出来事はスミスに影響を与えた。

「それはつまり、私たちは人一倍、努力しなければならないということでした。だから、そうしてきたんです」

スミスは学生時代、米国でも傑出した黒人男子学生の社交クラブ「アルファ・ファイ・アルファ」に入った。学者肌でありながら野心的なキャリアに進む会員が多いことで知られ、最高裁判所の判事を務めたサーグッド・マーシャルやマーティン・ルーサー・キング・ジュニア牧師を輩出している。当時からスミスには支えてくれる人々がいたが、なかでも極めて重要なメンターだったのが、ジョン・ユテンダールだ。

ユテンダールは先駆的な黒人経営の投資銀行を創業した人物で、現在はバンク・オブ・アメリカの副会長を務める。その彼が、コロンビア大学の卒業式でスピーチしたことがある。その後すぐ、ユテンダールはスミスをランチに誘い、ツナサンドを食べながら、MBAで専攻したマーケティングを捨て、ウォール街で働くよう説得したのだという。

ユテンダールは言う。

「教えられたり、勉強したりして身に付けることはできないひらめきや振る舞い、知恵ってあるでしょう。世の中には、そういったものに恵まれた人間がいる。ロバートに出会ったとき、それを感じたんです」

スミスは、ゴールドマン・サックスの合併・買収部門に入った。最終的にはサンフランシスコに移ってマイクロソフトやイーベイに助言を行う、企業システムおよびストレージ部門の共同部門長になった。スミスは、アップルがスティーブ・ジョブズをスカウトし、復帰させる手助けをしたチームの一員だった。
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文=ネイサン・バルディ 翻訳=木村理恵

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