この言葉で事業構造と戦略が見えたという。それまで松本が悩んでいたのは、投資を一回かけただけだと、コストの回収に時間がかかることだった。だが、根雪のように顧客がきちんと積み重なって、長くラクスルを利用してもらえる計算がたてば、事業は拡大できる。
さて、ここからが本題である。Jカーブが理論上実現できるところまできたとき、想定していなかった綻びが出たのである。
14年2月に15億円の調達を行って2カ月がたったころのことだ。会社の草創期から一緒だったメンバーが、「ちょっと話があるんだけど」と、松本を会議室に呼んだ。そして、こう切り出したのだ。
「ラクスルを離れようと思う」
突然の話に松本が、「このタイミングで?」と動揺すると、彼は「これ以上はきつい」と涙をこぼし始めた。「きつい」という本音に、松本も驚き以上に仲間を失う衝撃で自然と涙ぐんでいた。
会社を去る決意をしたのは彼だけではなかった。取締役を含む数人が辞職した。Jカーブの理論通りに、事業と資金は短時間で規模を拡大できていたのだが、社員への要求水準が高くなり続け、急成長に人と組織がついていけなくなったのだ。
「組織は疲弊して壊れかけていたのです」と、松本は言う。「このころが一番きつかった」という彼は、人はそう簡単に変わらないという当たり前の事実を、目の当たりにしたのである。
「人数もマネジメントも足りず、当時はみんなが管理業務もやれば、マーケティングもカスタマーサポートも何でもやる状態でした。当時、私は28歳ですごく現場が好きで、現場を見ると、いろんなことが気になって口を出してしまう。監督兼エースのように、すべてをカバーするスタイルでした。しかし、組織のつくりかたもマネジメントのスタイルも変える必要があったのです」
試行錯誤が続いた。シンガポールに行く飛行機の中でグーグルの人事トップが書いたベストセラー『ワークルールズ!』を読むと、空港に着くや会社に連絡して、採用方針を取り入れた。それまでは前職を意識し、「現場のエース」を採用していたが、「自分より優秀な人材を採用することにして、マネジメントを揃えたうえで上から組織を固めて、その下につくメンバーを採用していく」方法に変えた。
社長室をつくったのも、あえて現場から距離を置くためだった。そして足りないものにも気づいた。
「それまで具体的なHowの話ばかりしてきて、本当に重要なWhyとWhatが弱かったのです」
問題の本質を見極め、どんなビジョンをもって解決をして、いかにして顧客にとって価値の高いサービスを創り上げるか。つまり、顧客の業態変革のために、自らの変革が必要だったのだ。離職率が減り、Jカーブを描いて事業を拡大できたのは、理論以上にこうした試行錯誤の賜物だろう。
「来年は明治開国150年の節目の年です」と、松本が切り出した。何を言い出すのかと思ったら、彼らしくこう言うのだ。
「明治以来、延長して使い続けて制度疲労を起こしている仕組みがたくさんあります。それを、いかにしてつくり直していくか。アイデアが浮かんだ瞬間、ワクワクしますね」
──輸血と物流。歪んだ需給にメスを入れて、三輪と松本は社会を建て直す。撮影が終わり、別れ際、松本は三輪にこう声をかけるのだった。
「今度、お食事でもどうでしょうか」
三輪玄二郎◎1951年、東京生まれ。1974年に東京大学を卒業。84年、ハーバード大学経営大学院修士課程修了し、ベイン・アンド・カンパニーに入社。2011年9月にメガカリオンを創業。
松本恭攝◎1984年、富山県生まれ。外資系コンサルティング会社A.T.カーニー入社。クライアント企業のプロジェクトに従事。2009年、印刷サービスを手がけるラスクルを創業。