テクノロジー

2017.04.10 08:30

「次世代のインテル」NVIDIAに学ぶ、飛躍的進化への道筋


台湾で生まれたフアンは、10歳の時、両親に連れられてアメリカへ移住した。ケンタッキー州の片田舎で、問題児ばかり集まる寄宿学校に通いながら、卓球に没頭。78年、15歳の時には卓球の全米オープンのジュニア・ダブルスで3位に入賞するほどの腕前になった。

高校に進学するとコンピュータにのめり込み、オレゴン州立大学ではコンピュータ科学とチップ設計を専攻した。妻のローリーともここで出会っている。卒業後はシリコンバレーへ移り、半導体のアドバンスト・マイクロ・デバイス(AMD)へ入社。プロセッサーチップ設計の傍ら、学業も継続し、92年にはスタンフォード大学の電気工学修士号を取得する。そして転職先のLSIで、サン・マイクロシステムズ出身のクリス・マラコウスキーと、カーティス・プリームと出会った。

30歳になったばかりの3人は「グラフィック用チップの会社を立ち上げよう」と夢を語り合った。当時のPCに搭載されていたチップがあまりにお粗末だったので、これを進化させれば大きなビジネスチャンスがあると考えたのだ。

「93年の時点では、私たちが作ろうとしている製品を求めている人すらいなかったのですが」とマラコウスキーは語る。「カリフォリニアでは『ウェイティング』と呼ばれる開催方式のサーフィン大会があります。5カ月の待機期間中に、太平洋の彼方……例えば日本で特定の波や嵐が観測されると、参加するサーファーたちに開催決定の通知が届きます。2日後にいい波が来ることがわかるからです。私たちもそのようにして、波が来る前から待ち構えていました」

彼らが見ていたのは、いわゆるGPUの時代の始まりだった。

「先見の明」と「粘り強さ」

95年の開業以来、エヌビディアは何度か倒産の危機に瀕しながらも、開発競争に勝利することで乗り越えてきた。90年代後半には70社あったGPUメーカーのうち、今日まで生き残ったのはエヌビディアとAMDだけである。

GPUは、ビデオゲームの3Dのグラフィックを超高速で表示させるために使われてきた。起業から20年余が経過した現在も、エヌビディアのPCゲーミング部門は堅調に推移を続けており、50億ドルある総売り上げの半分以上を占めている。

しかしフアンは起業当初から、エヌビディアのGPUにはビデオゲームを作る以上の可能性があると確信していた。それがディープラーニングであるとは夢にも思わなかったが。

ディープラーニングは、人間の脳─ニューロンやシナプスといった神経回路を模した技術だ。人間がプログラムをしなくても、コンピュータが自ら学習し、いまだかつてない精度での画像認識や言語認識等を可能にする。60年代に学術界へ登場して以来、80年代、90年代と発展してきたが、研究者たちは2つの大きな壁にぶつかっていた。アルゴリズムを進化させるために必要な膨大なデータと、それを処理するための演算能力である。

前者は、誰もがほぼ無限のデータにアクセスできる“インターネット”の出現によって解決した。だが、そのデータを処理できるチップは非常に高価かつ取り扱いが難しく、研究者たちに行き渡ることはなかった。
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翻訳=徳田令子(アシーマ)、編集=飛松紅葉

この記事は 「Forbes JAPAN No.33 2017年4月号(2017/02/25発売)」に掲載されています。 定期購読はこちら >>

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