「新しいものに挑戦せざるをえなかった」
なぜ原田はGEA社からの誘いに乗って困難な開発に挑戦したのか。原田は「最初は社会的使命というより、もっと切実な理由。新しいことをやらないと生き残れなかったからです」と笑う。
日本熱源システムを創業したのは原田の父だった。
もともと冷凍機メーカーに勤務するヒートポンプの技術者だった父は、勤務先から別の事業への異動を打診され、「ずっとヒートポンプをやりたい」と1987年に大型のヒートポンプを製造する会社を立ち上げた。
原田は大学卒業後NYに留学し、帰国後はNHKに入局。政治部で総理番や安倍晋三官房副長官番、福田康夫官房長官番などを務めた。記者としてキャリアを順調に重ねていた矢先、会社の顧問から連絡が届く。
「家業を手伝って海外メーカーとの折衝役をやっていた弟が父と合わず辞めることになりましてね。顧問から『あなたは英語ができる。戻ってくれないと会社が大変なことになる』と。何度も断りましたよ。でも、タイミング悪く母の病気も発覚。このままでは家族がもたないと思って覚悟を決めました。幸い母は今でもピンピンしています」
ただ、入社後は後悔の日々だった。請われて家業に戻ったはずなのに、古参社員から「何しに帰ってきたんや」とあしらわれ、先代からも「技術が分かっていない」と疎まれる。ドイツに向かう飛行機の中で、「何のために記者を辞めたのか。人生、終わったな」と何度も唇をかんだ。
とはいえ、会社を倒産させるわけにはいかない。当時、空調用の大型ヒートポンプの案件が減っていた。原田は産業用冷凍機に活路を見いだして徐々にシフト。その方針に共感してくれた若手技術者たちと一緒に前に進むしかなかった。
社運を賭けて原子力発電所の案件にもチャレンジした。しかし東日本大震災で原発案件そのものがストップ。八方塞がりの状況のときにもちかけられたGEA社からのCO2冷凍機開発の提案。断る理由はなかった。
「勝算はゼロ。すでに私が社長でしたが、先代に知られたら止められると思って内緒で開発していました。実際、開発費が億近くに達して青くなった財務担当の社員が父のところに駆け込み、待てがかかったこともあった。突っぱねましたけどね(笑)」
充実していた記者の道を諦めたからには、自分を納得させられるだけの結果を残したい──。原田の口ぶりからはそんな執念が感じられる。