初めてて目の当たりにする雪の壁に囲まれた道路であった。三十数年前の1月末、福井県は鯖江市。駅前でタクシーを拾い凍てつく雪道を20分ほど行ったところ、丘の中腹に恩師の若泉敬先生のご自宅があった。若泉先生は遺作の『他策ナカリシヲ信ゼムト欲ス』で著名な国際政治学者であった。沖縄返還協定を巡る日米の水面下の交渉を記した歴史的力作だ。先生は学者である前に、優れた外交実務家、タフなネゴシエーターであった。
新宿御苑近くの先生のオフィスにはよくお邪魔したものだが、この時期には郷里の福井に戻られていた。小柄な痩躯でソフトな雰囲気は変わらないものの、専門領域に話が及んだときの眼光は鋭かった。ふと「先生の眼は鷹のようですね」と申し上げると、「それはマズイね。外交には兎の眼が必要だよ」と返された。兎は大きく赤い眼が特徴だが、どこを見ているかわからない。国際舞台のせめぎ合いでは鷹の眼では警戒されるだけ、本音を見せない兎の眼が必要だ、とおっしゃった。
現下の世界情勢は複雑化の一途にありカオスに近い。収集し分析した情報を手にした時、相手にどのような視線を向けるべきか。兎の眼で臨むべきだろう。その奥に鷹の眼があればもっと良い。
問題は機密を要するような重大情報の取り扱い方である。民主主義体制の下で、国家は情報を原則として公開すべき筋合いにある。しかし、直ちに公開することがかえってリスクを高めてしまうケースも少なくない。SNSやIT技術の発展の陰の問題として、虚偽情報の拡散や正しい情報が誤った方向へ流布されることも多い。
そもそも情報の受け手のリテラシーには大きな差がある。重要情報であればあるほど、その読み方がキーになる。知見を欠いているうえ、又聞き情報を基に、わけ知り顔で不正確な発信を繰り返すコメンテーターやSNS投稿者たちの存在も悩ましい。多くの視聴者が彼らの言説に誘導されるからだ。風説に過ぎなくても、いったん広がるとその風説自体が情報価値をもってしまう。
国際関係は歴史的に情報戦であり、情報自体を秘匿するか否か、機密情報をどう活用するか、が死命を制する例が数限りなくある。後世、断罪される「嘘つき」外交も、事態に直面していた国にとっては合理的判断と評価される。第一次大戦後の中東をめぐる英国の「三枚舌外交」などその典型であろう。
情報戦に直面しているのは国家だけではない。グローバル企業も政府と似たような立場に置かれている。地政学リスクや外交リスクが彼らの業績を直撃するからだ。日本企業の最重要取引先である米国や中国は、経済安全保障が軍事安全保障に直結している。同盟国の米国ですら、安全保障に絡むと日本企業に対米外国投資委員会の厳しい審査を課する。現に日本企業の多くが、有価証券報告書などでリスクファクターとして地政学リスクを挙げている。
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