孫:そもそも学校が面白くない理由は「評価」があるからだと思います。評価があるから真面目にならざるを得なくなり、つまらなくなる。それで、評価について徹底的に考えた結果、「評価はいらない」という考えに行き着きました。
ただ、評価なしでどのように運営したらいいのかという問題は残ります。私自身、人が集まって学び合う必然性がどこにあるのかと考え、様々な人たちに話を聞き、書籍や論文を読み漁りました。そして、思いがけず、デール・カーネギーの『人を動かす』のなかに、その答えを見つけました。
そこに「Give honest,sincere appreciation,(誠実に、心を込めて、相手の良さを認める)」という文章があるのですが、そのappreciation(アプリシエーション)を辞書でひくと、「感謝」と「鑑賞」という2つの意味が記されています。
高橋:日本語としては、感謝と鑑賞では意味は大きく違いますね。
孫:通じるところはありそうですが、異なる行為と言えます。ではなぜ英語ではアプリシエーションというひとつの言葉でおさまっているかというと、感謝と鑑賞は表裏一体だからになります。
例えば、好きなアニメや漫画、芸術などがあれば、好きだからのめり込んで鑑賞しますよね。友達にどこが好きなのかと聞かれれば、その理由を熱心に語るはず。鑑賞を重ねれば重ねるほど作者のことも好きになり、いつしか「作品を世に出してくれて、本当にありがとう」という感謝の気持ちにつながっていくものです。
高橋:深く鑑賞をすればするほど、最終的に深い感謝になると。
孫:そう考えると、優劣をつける評価は鑑賞レベルで考えると、非常に浅いわけです。相手を深く鑑賞することなく、「よくできました」と評価しているだけ。学校はそんな浅いレベルではなく、一人ひとりの素晴らしさを深く鑑賞し合うことで互いを好きになり、そのためにみんなで集まって学び合うことが必要なのではないかと。
武田:評価がいらないのは、学びの環境においてだけでしょうか。企業で評価を完全になくしてしまうと、組織として成り立たなくなりそうです。何かしらの目標を掲げ、そこに向かうためには評価基準は必要な気がしますが……。
孫:実は、企業活動における評価の必要性についても疑い始めているところです。
高橋:人事評価ソフトが蔓延しているこの世のなかはどうなのか、と?
孫:まさに「誤謬なき世界」に一直線に向かうような、人事評価でAIによるデータ解析を駆使する手法があるように、そういった評価タスクはすべてAIで代替可能ですから、人間はやらなくなるはずです。
武田:確かに。