教師は聖職者か労働者か
教育学者の貝塚茂樹武蔵野大学教授によると、明治時代に始まる近代学校制度は当初、教師聖職者論を打ち出した。1872(明治6)年学制公布の翌年、文部省は小学教師心得第一条で「およそ教師たる者は学文算筆を教うるのみにあらず、父兄の教訓を助けて飲食起居に至るまで心を用いて教導すべし」(片仮名などを現代仮名遣いに変更、以下同じ)と示した。
1880(明治13)年、第二次教育令では「品行不正なるものは教員たることを得ず」と断言。初代文部大臣の森有礼は教員を「教育の僧侶」と位置づけ、教師教育の目的を「良き人物を作るをもって第一とし、学力を養うをもって第二とすべし」と定めた。
なんだか明治という時代に似つかわしいなあ、という感想を持つ。司馬遼太郎が小説「坂の上の雲」で描いた、近代化路線をひた走るちっぽけだが凛(りん)とした国家日本、というイメージと重なる。おそらくそれを支えたのは、江戸時代の寺子屋・藩校といった教育に泉源をもつ日本人の勤勉性と識字率の高さだと私は考える。
20世紀に入り、公立小学校の無償化が規定されると、わが国の児童就学率が90%を超える。これに伴い教師聖職者論では対応しきれなくなったと、貝塚教授は指摘する。教師の出身階層はそれまで旧士族が大半を占めていたのが、日清戦争後およそ半分に減り、農村出身者が増加していく。
大正デモクラシーの時代になると、自由教育運動の広がりの中で、より人間的博愛的な教師像が求められた。しかし、昭和に入るや一転。満州事変以後の戦時体制に教育も組み込まれていった。
80年前の敗戦。GHQ占領下で軍国主義的教育は撤回され、民主的教育が提言された。だが、実際はまだ食うや食わずの生活。1948(昭和23)年の時点で16万5000人の教師が不足していたといわれる。この前年に日本教職員組合(日教組)が結成され、1951(昭和26)年制定の「教師の倫理綱領」に掲げられたのが「教師は労働者である」の文言だった。
以後、教師は聖職者か労働者かという議論はそのまま政治の文脈に置き換えられ、文部省と日教組の対立に収斂してしまったと貝塚教授は嘆く。
高度経済成長に学童期を過ごした私もその影響を受け、教師は労働者(=被支配者、搾取される側)と自分勝手に思い定めた時期があった。
では実際に、現場の教師はどう考えているのか?
![Getty Images](https://images.forbesjapan.com/media/article/76360/images/editor/6ef08a5fd54827e240cf58f1fd9aa35a803e5b50.jpg?w=1200)
60代の高校教師Cさん。保健体育が専門で、今も教壇に立ち続ける。
「教師は労働者と思っていても、聖職者として働かなければならないという考えも頭のどこかにあるんじゃないかな」と、葛藤を打ち明ける。
教師の過酷労働を追ったテレビドキュメンタリーの話題になった。授業を終え放課後に事務仕事を終えた夜、職員室から不登校生徒の家庭に電話をかけ続ける姿に「むかし先輩教師が、先生はヒマをもてあますくらいがいいんだよ、と言ってたのを思い出す」とつぶやいた。
・Cさんの知人の30代男性
Cさんの知人の30代男性。理想の教師像を抱いて教育大に入ったが、卒業前の教育実習で「無理だ」と判断して、教員への道を断念した。今は工場勤めをしている。
Cさんは「僕らのころは、教育実習はむしろ楽しかった。今は保護者対応も大変で、息つく間もない」とこぼす。そして「親が教師を信頼していない」と実感するという。
前回の当欄で内田樹氏著『先生はえらい』を引用しつつ、高度経済成長時代までは教師に対し、現実がどうあろうとも尊敬すべしとの擬制があったと述べた。時代の変化でその建前は崩壊したが、どんな物事にも功罪両面がある。すべてが数値化され、コスパ・タイパ(個人的には嫌いな言葉だが)が世の中を覆い尽くすようになった。