教職員のメンタルヘルス対策検討会議がまとめた報告によると、授業等の教育活動以外の用務、特に「保護者との関わり」が負担感を大きくしている。それと反比例して「児童生徒と共に過ごす時間や教師としての権威」が減るいっぽうだという。
思うに、明治以来の近代教育制度が耐用年数に達してきたのではないか?
「教師・聖職者論VS労働者論」は、精神疾患で休職する教員が最多を更新し続ける現実を見直すうえで、一つの“ものさし”として論じるべきではないのか。先日の新聞社説にも、全国小中学校の不登校生は34万人を超え、重大ないじめは1000件を超えたとあった。こうした心を病む子どもたちを診ていると、今の教育はどうあるべきなのか、疑問を抱かざるを得ない。
気になるのは、その社説に〈「未来への投資」である教育を軽んじる国に未来はありません〉とあったことだ。筆者は無意識だろうが、これは、コスパ・タイパ優先となった今の日本社会のありようを皮肉にも表していないだろうか。教育も経済の文脈で語る。ハイ・リターンを得るためにどうすべきかと。
病んでいるのは、教師ばかりではない!先生も、子どもも、そして親たちも、病んでいるのだ。
昨年11月に92歳で亡くなった詩人谷川俊太郎氏の作品に「がっこう」(2003年)がある。
がっこうがもえている/きょうしつのまどから/どすぐろいけむりがふきだしている
で始まり、机や黒板、「ぼくのかいたえ」も燃え、先生は誰もおらず、生徒は夢を見ていて、炎が「うれしそうにがっこうじゅうをなめまわ」し、学校は大声で叫んで「からだをよじりゆっくりたおれていく」。
そして、最後にこう締めくくる。
くやしいか/がっこうよ/くやしいか
もし学校が口を利けるなら、この詩になんと応えるのだろうか。それを考えることが、いま、私たちに求められている気がする。