マイナスからのスタートだった事業承継
──日本交通創業者のお祖父様が「昭和のタクシー王」と呼ばれた方で、お父様はどういう方だったんですか?ビジネスパーソンとしては、完全なる反面教師ですね。私が30歳で日本交通に入社したとき、父は62歳で、癌だったんです。
──ご病気だったんですね。
その前までに、巨額の借金を作っていました。父は不動産投資をやっていましたが、バブル崩壊で全部ひっくり返り、2000億円近い借金に膨らんでいました。「自分はもうこれを元に戻す気力と体力がない」と。
だから私が入社したときから「一朗、お前自由にやれ。うまくいったらお前のおかげだ。だめだったら俺のせいだから、心配すんな」と。マジかと思いました。
──でも、株式はお父様が握られていたとか。
実は父が意図していました。祖父から父への相続時、13年間に及ぶ大変な揉め事があったのです。父は、基本良い人だったんで、そういう争いごとを自分より下に味わせてはいけないと考えていたのでしょう。
だから、株はまとまっていました。また、何でも応援してくれ、1回も「だめ!」と言われたことがありません。
「期待の星」が溶かしてしまった4億5千万円
──川鍋さんが日本交通に入社したときのことを教えてください。
取締役として家業に戻りました。当時、会社の業績が良くなかったので、救世主がいるとすればこの人かもしれないって、ほのかな期待感が社員みんなにあったと思います。
──アメリカMBAだし、マッキンゼーだし、希望の星だと。
当時、2000年にカルロス・ゴーンが日産に来て沸いていたので、3代目はもしかしたら「日本交通のカルロス・ゴーン」かもしれないという期待で迎えられました。だから、私も「MBAのマッキンゼーだぜ、任せろ」みたいな(笑)。特に、若手の期待は大きかったと思います。
──入社後は順調だったのでしょうか。
いや、何度も痛い思いをしました。日本交通に入社して半年後ぐらいに、英語が喋れる乗務員を集めて、ミニバン・ハイヤー事業の「日交マイクル」という会社を作りました。この会社を上場させ、日本交通を買い取るぐらいのことを目論んでいました。
私は、アメリカでMBAを取得し、グローバルファームの「マッキンゼー」にいましたが、リアルなビジネスは経験がありませんでした。ただ、できると思っていました。
しかし、毎月2000万~3000万円の赤字が出て、3カ月経ったときに「あれ、このプロジェクト終わらないな」と思ったんです。
──毎月3000万円も赤字を出したのですか?
いきなり車を50台も発注したのですが、乗務員は3人しかいませんでした。さらに家賃などの諸経費もかかり、約3年で4億5000万円の累損を計上しました。「なんで誰も止めてくれなかったの......」って思いました。社内の期待はしらけ、「ほら見たことか」「2代目も3代目も変わらない」というムードになってしまいました。
その頃から、自分の自信がぺりっぺりっと剥がされ、「すいません。ここからちょっとずつ頑張ります」みたいな感じで、日本交通の事業に虚心坦懐に取り組むようになりました。