心身の不調を回復させるために博物館へ行く?
「社会的処方(Social Prescribing)」という言葉があります。これは2000年代初頭にイギリスで始まった取り組みで、簡単に言うと、医療の専門家が患者さんに非医療的なサービスやアクティビティを薬のように「処方」して、患者さんの心身の健康と幸福、言い換えると「ウェルビーイング」を向上させるという試みです。例えばストレスや環境から孤独感をつのらせてうつ状態を発症している方に医療従事者が「博物館や美術館に行く」ことを「処方」するのです。それを受けてリンクワーカーと呼ばれる人たちが「処方箋」に従って地域の適切なサービスやアクティビティーと患者さんをつなげる(紹介する)ことをします。2010年代に入るとこういった活動はイギリス全体で急速に普及し、政府、例えばNational Health Service (NHS)、によってサポートされ始めました。このような動きは、ヨーロッパを経て北米でも注目され始めています。もしこの取り組みが成功すると、政府や実施している自治体の医療費削減、また一般医療機関の圧迫の緩和やコミュニティーの結束向上などが促進されると期待されているそうです。
星空と共に自分らしく生きる
「ウェルビーイングの向上」という言葉には、本来の自分を取り戻し人間らしく生きる、もしくは少なくとも本来の自分を取り戻すことの重要性に再び気づく、といった意味が含まれているような気がします。私達を含む生物の多くは、地球上での進化の過程で常に厳しい自然に向き合い、晴れた夜には満点の星空を経験してきたわけです。しかしながら現代に生きる私達は、暗い夜空を失い、ほとんど星を見上げることがなくなりました。何億年も当たり前だったはずの、星空や宇宙と繋がるということがない、現代の生活環境で日々暮らせば、本来の自分らしさや人間らしさを見失ってしまうことも当然と言えるのではないでしょうか。
著名な科学雑誌「SCIENCE ADVANCE」が 2016 年に発表した研究(1)によると、現在世界人口の80%以上、 アメリカとヨーロッパの人口の99%以上が、光に汚染された空の下で暮らしているということです。また、ヨーロッパの60%、北米人の80%近くを含む人類の3分の1以上が、「天の川」が見えない環境にいるそうです。そして様々な研究で、この「光害」は現在も驚くべきスピードで広がっているということが示されています (2)(3)(4)。
上記の研究では、こういった光害の中で⻑く過ごしていると、身体の機能に影響を及ぼすことも報告されています。それによると、例えば最も光害が酷いシンガポールにおいては、国⺠全体が目の暗順応の機能を損なっているということです(1)。そんな世界に生きる私達がふと空を見上げ星空を見上げて宇宙の中にいる自分に気づく。その結果、本来の自分に立ち返り心が少し軽くなったりすることは自然なことに思えます。
博物館の一種である公開天文台で、星空を見上げたり解説員や他のお客さんと交流したりしながら宇宙に思いを馳せる。自分の中にある星空の思い出を他の人達とシェアする。そんな「天文台浴」で日々のストレスを気軽に軽減するということが当たり前になり、またそんな活動を医療従事者が「処方」する日も近いかもしれません。
公開天文台には博物館の一種である施設として、そのような利用者のウェルビーイングの向上、そして自分らしく生きることの気付きの場を提供するという新しい社会的役割を果たすことが求められ始めています。