私は、テキサス州オールバニーに到着した。人口1854人の小さな村だ。目的は、大いに必要としていた「一人きりの休暇」を満喫することだ。小さなキャビン(小屋)で読書をし、書き物をし、自らを振り返ってリセットするつもりだった。
クルマから荷物を下ろしていると、玄関先で私を出迎えたものがあった。とても小さくて、毛に覆われたボールみたいな、生後6週間の子猫だ。手のひらに乗りそうなほど小さい。玄関ドアを開け切らないうちに、その子猫は私の脚の間をすり抜けて、すばやく室内へと入り込んだ。丁寧に計画を立ててきた大事な一人きりの時間に、ふわふわしたカオスの化身が侵入してきたのだ。
私は子猫を裏口から外に追い出すと、すぐさま予定どおりに、休養とリセットに勤しもうとした。ところが、子猫はドアの外に座りこみ、5分間、休むことなく鳴き続けた。集中力を高めたいときに聴くようなBGMではない。私は根負けして、子猫を家の中に入れた。
そのあと私は、子猫の存在を無視して、そこを訪れた本来の目的に集中しようとした。しかし、子猫は私の脚をよじ登って来て、ノートパソコンのキーボード上に陣取り、読んでいた本のページをかじり出した。その本のタイトルは、『Living Life Backwards: How Ecclesiastes Teaches Us to Live in Light of the End(人生を逆向きに生きる:「コヘレトの言葉」が教える、終わりを踏まえた生き方とは)』だ。
この休暇は、ペースを落とし、自らを振り返り、夢を見る、貴重なチャンスだ(幼い子どもが3人もいれば、そんな暇はあまりない)。それなのに、子猫のせいでその目論見が台無しになりつつあった。
私はイライラした気持ちを募らせたが、ふと、ある声を耳にした。それはどうやら自分が発した、ささやくような声だった。「おいカート(私の名前)。この忌々しい猫を、ただ楽しめばいいんだよ」
皮肉なことに、私が読んでいた『Living Life Backwards』は、旧約聖書の「コヘレトの言葉」を取り上げた内容だった(「伝道の書」とも呼ばれる詩文で、ダビデの息子コヘレトが、名言や格言を通じて、つらさや苦しみを幸せに変えるよう説く内容だ)。
同書が主に伝えようとしているのは、こういうことだ。充実した生き方とは、人生を達成するもの、コントロールするものとみなすことではなく、贈り物とみなすものだ。それなのに私は、目の前にいる小さな生き物を邪魔者扱いし、綿密に計画を立てた一人きりの休暇の「達成」を妨げる存在だとみなしていた。