ヨット部での第一歩、そして「大型バス2台分の広さで1週間」の選抜試験へ
今日は、「自分で一歩を踏み出すこと」と「社会を一歩前に進めること」についてお話をしたいと思います。
まず、好奇心を持って新しい一歩を踏み出し、感じ、学んだ経験を大切にしてください。私にとってはヨット部に入部したことが、大学生活での新たな一歩でした。ヨットに乗れるチャンスはきっと人生でそう多くないと思って新入生体験会に行き、そこで目にした、風を切って海面を進むヨットに胸が躍りました。自分の手でも実際に帆や舵を操り、海原を巡りたいと思い入部を決めました。真夏の太陽の眩しさ、真冬の指先の凍え、風を受けて進む爽快さ、荒れた波や風の恐ろしさ、飲み込んだ海水のしょっぱさ。自然と直接対峙し、多様な側面に触れることで感覚が研ぎ澄まされたように思います。そして、一人だけでは立ち向かえない自然の壮大さを知りました。
こうした感覚を共有することで、多様なバックグラウンドの仲間とも互いに理解し合い、力を合わせたチームの強さを実感しました。長期休暇には皆で海辺の合宿所に泊まりこんで練習に励み、自然と人間の両方を相手にしながら競い合い、切磋琢磨する面白さを知りました。合宿生活で仲間と共に楽しいことを喜び、辛いことを乗り越えた経験は、とても貴重でした。
そのような経験から8年、宇宙飛行士候補者選抜試験の最終局面で、ファイナリスト10人の1人として大型バス2台分の広さの閉鎖環境で1週間の共同生活を送る機会がありました。まさに部活の集団生活の再来です。素晴らしいファイナリストの仲間に、気持ちよく1日が始められるよう朝の体操などを提案して、皆がリラックスして最大限の力を発揮できるよう心がけました。自分自身としても協力しながら、気負わずに自然体で過ごすことができ、思わぬ形で昔の経験が活かされました。
ジョブズの「コネクティング ザ ドッツ」を体感
そこで私の頭をよぎったのは、スティーブ・ジョブズの「コネクティング ザ ドッツ」というフレーズでした。直訳すると「点と点を繋ぐ」という意味ですが、大学でカリグラフィを学んだ彼の経験が、後にMacの美しいフォントデザインに役立ったという実体験に基づいて話されたものです。一見、関連がなさそうに見える色々な経験は、後に思いもよらぬところで繋がり、あなたならではの新たな価値を生み出すきっかけとなると言いたかったのでしょう。私にとっては、ヨット部での経験というドットが、宇宙飛行士選抜試験というドットに繋がったのです。
ドイツの近代哲学者であるカントは、すべての経験は感性による多様な感覚から始まり、その感覚が取りまとめられることで個人の理解となり、さらに理性によって皆と共有できる真の知識が得られるとしていますが、これも「コネクティング ザ ドッツ」の考えに、通じるところがあるように思います。新しく共有される知識に至るには、まずは勇気を持って独自の一歩を踏み出し、またそれを続けることが必要です。そして、あなた自身のストーリーが作られ、独自の強みや魅力ともなるのです。自分の内にある願望や興味に耳を傾け、少しでもやってみたいと思う芽を大切にしてください。未体験や未開拓の地に足を踏み入れた経験が次の新しい一歩を踏み出す原動力となるはずです。
さらに「コネクティング ザ ドッツ」の考え方は、人間関係の観点からは、偶然とも思える人々との出会いが、徐々にネットワークとなり、後になって大きな社会の形成に役立つということにも通じると思われます。皆さんが卒業するころには、3000個のドッツの間には多くの線が引かれ、豊かなネットワークが形成されることでしょう。このネットワークは、一人ひとりが踏み出した第一歩から紡がれるのです。
また、昨年は生成AIの発展が目覚ましい一年でした。膨大なデータを学習し高速に情報処理を行うAIは我々の社会を急速に変えつつあります。そこで人間に求められることは何でしょうか? 独自の感性を研ぎ澄まし、人との交流の中で幅広い経験を積むことの価値がさらに高まると私は考えます。AIが社会に浸透する中で、新たな問題を提起することや、倫理、個性、身体性などにまつわる課題を広い視野で議論し総合的に判断することが必要となるでしょう。そこでは人間の経験が必ずやベースとなるはずです。だからこそ、実世界における経験の中で、その瞬間の感情や感覚を大切にしてほしいと思います。そして、人間としての経験をもとに他者と対話し、共感することも欠かせないでしょう。