環境保護、動物の権利、気候変動、ジェンダー平等、貧困地帯における飢餓や衛生、ホームレス支援、障がい者支援、依存症や難病の支援。解決すべき課題は山積しており、その数だけの解決すべき指標がある。その重みは人によっても違う。
効果的利他主義のような方法論は、指針のひとつにはなる。しかしそれを唯一の基準とすることはできない。効果的利他主義は理想的なアイデアかもしれないが、それを扱う人間は理想的な存在ではないからだ。
人間は、自らの生活を基盤にして、固有の価値を育んでいる。そこに普遍的な合理性はない。もし私たちが政治や経済のシステムのうえで、ただ合理的に動くだけのアクターだったなら、悩みはしないだろう。効果の高い順に、順番に寄付してゆけばいいだけだ。いや、そのときは寄付なんて不確かなものはなくなって、すべてが税金と再配分でまわっているのかもしれない。
しかし、社会はそうなっていない。私たちは葛藤を抱えながら、寄付先を選ぶ(もしくは、選ばない。それもひとつの選択だ)。それこそは、私たちが生活をもった一人ひとりの人間である証しである。
日本特異の「新潮流の萌芽」
私は「新しい贈与論」という寄付者が集まるコミュニティを運営している。毎月、推薦と投票によって寄付先を選び、みんなでそこに寄付をする。寄付する人たちの動機や、寄付先を選ぶ基準は一様ではない。その人の経験や仕事内容、家族や友人の状況や病歴、育ちや住まい、誰に助けられたのか、どういう本を読んできたか。そうしたことのすべて──つまり、その人の人生の総体に大きく左右される。100人が世の中を良くしたいといっても、そこで目指される「良い世の中」は一人ひとり異なっている。「新しい贈与論」のなかで印象的なエピソードがある。ある女性会員が退会を申し出た際、こう伝えてくれた。「どこに寄付すればいいかわからなくて新しい贈与論に入ったんですが、どこに寄付してもいいとわかったんです」。彼女は、寄付には正解も不正解もないことを教えてくれた。
日本のフィランソロピーは、今も昔も教育と芸術振興が人気だと述べた。しかし最近登場した、冒頭で述べたいくつもの財団に私が感じた潮流は、それとは異なる。教育を扱うものもあるが、既に存在してきた奨学金財団と比べると、その違いは歴然としている。
こういうと違いがわかりやすいかもしれない。彼らは自分の会社の創業のように、財団を起業している。先例や正しさにとらわれず、自分なりの社会貢献のかたちを模索している。リタイア後の第二の人生とするのでもなく、本業と並行して努めている。彼らは社会貢献を義務としてするのではなく、半分くらいは楽しんでいるように見える。それは欧米が富裕層のフィランソロピーをノブレス・オブリージュ(高貴なものの義務)と呼んだり、資産の半分を寄付するという誓約 GivingPledge をつくったりしていることとも、異なった方向性にある。
今はまだ、日本流の新しいフィランソロピーだと、声高に主張するつもりはない。いくつかの興味深い取り組みがあるだけだ。しかし、こうした財団があと10、20と登場してくれば、日本のフィランソロピーのシーンは決定的に変化するだろう。今起こっているのは、その前兆である。
桂 大介◎1985年生まれ。早稲田大学在学中の2006年に、村上太一とリブセンスを共同創業。12年10月には、当時史上最年少での東証一部上場を果たした。19年に一般社団法人「新しい贈与論」を設立し、代表理事を務める。