「効果的な寄付」の限界と可能性
効果的利他主義は、いくつかの前提を置いている。そのひとつは「どこの誰であっても、平等なひとつの命である」という信念だ。21世紀で生きる私たちにとって、疑うことの許されないような、当然の考えとして受け取るかもしれない。しかし残念なことに、私たちのふだんの生活はそれに反しながら営まれている。70万円で1人の命が救える。これは科学的調査に基づいた事実である。しかしそう言われても、多くの人はそのお金を寄付したりはしない。自らのぜいたくや、家族や子どもや友人のために使う。「命は平等」と心底思えているなら、そうはならない。自分自身や愛する家族が死に瀕していて70万円で命を救えるというとき、ぜいたく品はおろか、学費の支払いにお金を回す人さえいないだろう。そこには乗り越えがたい非対称性がある。
とはいえ、理想を放り投げる必要もない。効果的利他主義に賛同する人たちも、自分の子どもの学費より遠くの子どもの命を優先するような、極端な平等思想に殉じているわけではない。彼らもまた自分たちの生活や家族を大切にしたうえで、葛藤を抱えながら、できる範囲で支援を実践している。度合いは人によっても異なるだろう。言い換えれば、効果的利他主義の考え方を部分的に取り入れて、消費と寄付のバランスを考えることは誰にだってできる。
もうひとつの特徴は、効果を追求するために、慈善活動の優先順位を明確にすることだ。トップ・チャリティで、上位に命を救う団体が並んでいたのを思い出してほしい。効果的利他主義では、教育やアートへの寄付は、命を救うよりも優先順位が低いものとされやすい。とはいえ、「命がいちばん大事」というドグマ(教義)めいたものによって導かれるわけではない。簡単な思考実験から導き出すことができる。
訪れた人の1000人に1人が命を落とす美術館があるとする。あなたはそんな美術館を訪れたいだろうか。リスクを冒してでも、アートを見たいと思うだろうか。もし訪れたくないと思うならば、あなたは美術館の訪問より人命の価値を、少なくとも1000倍は高く見積もっていることになる。であるならば、美術館を補修するクラウドファンディングよりも、命を救うマラリアの予防薬に寄付を費やすべきだという現実的な選択が導かれる。ある活動を支援することは、ほかの活動を支援しないことを意味している。寄付というのは、常に残酷な選択だ。
インパクト評価と寄付の葛藤
最後にもうひとつの潮流を踏まえて、結論につなげたい。ビジネスセクターで勢いを増しつつある、インパクト投資、インパクト評価だ。日本でも、インパクトスタートアップ協会が発足したり、政府が「J-Startup Impact」という育成支援プログラムをつくり上げるなど、その動きは広がっている。インパクト評価の狙いは、企業活動における非財務的側面、つまり売り上げや利益や配当には表れない価値を明らかにしたいというものだ。非営利団体だけでなく営利企業でも人々の生活を豊かにし、社会の問題を解決している側面があるのだから、その「価値=インパクト」を定量化すべきだという考えに基づいている。
私の見立てでは、効果的利他主義者とインパクト投資家は、共通したイデオロギーを抱いている。それは簡単にいえば、すべての社会的影響を定量化し、計測し、比較し、最適化したいというものだ。
繰り返しになるが、こうした取り組みには有益な側面もある。寄付にしろ投資にしろ、社会的な影響を度外視して行うのでは、自己満足に陥ってしまう。結果としてどのような影響があったのか、アウトカムを計測することには重要な意義がある。