生成AI時代だからこそ問い直すべき「純粋経験」─ 伊藤穰一
西田幾多郎という名前を聞くと、どんなイメージをもたれるでしょうか。「絶対矛盾的自己同一」「絶対無」に代表される難解な哲学を展開した人、太平洋戦争中に右翼思想のバックボーンとされた人、今でも読み継がれる『善の研究』を書いた人……。
私にとっては、身近な尊敬すべき人になりました。現在私が学長を務めている千葉工業大学の前身、興亜工業大学の設立趣意書を起草したひとりが西田幾多郎。不思議な縁をきっかけに、大学では『善の研究』を精読する授業もしています。『善の研究』のなかでもキーワードとなるのが「純粋経験」という言葉。西田独特の概念なのですが、あらためて今を生きる私たちにとって重要なヒントを与えてくれるものです。特に、生成AIといったテクノロジーと共に生きる時代において。
ではそもそも「純粋経験」とは何か。西田は次のように述べています。
〈例えば、色を見、音を聞く刹那、未だこれが外物の作用であるとか、我がこれを感じて居るとかいうような考のないのみならず、この色、この音は何であるという判断すら加わらない前をいうのである〉
何かを知覚した際に、それを何色だ、どんな音だ、と自分自身で分析する前の意識状態。自分と対象、つまり主体も客体もない「混沌無差別の状態」。これを西田は「純粋経験」と呼びました。
生成AIは社会に大きな衝撃を与えています。そして、これまでにさまざまなテクノロジーが登場した時と同じく「人間は新技術に対抗できるのか」「果たして人間の役割とは何なのか」という議論が巻き起こっています。
私の答えはこうです。人間の仕事はなくならないし、シンギュラリティが起こる可能性も限りなく低い。なぜなら人間は「純粋経験」をするから。逆に言えば、「純粋経験」ができるのは人間だけだからです。
もちろん生成AIはプロンプトに対して、さも自論のような意見や説明をなめらかな口調で提示したり、経験したことがあるような答えをすることもあります。しかしそれは、人間の経験に基づく言葉が学習の元にあることが前提です。これらを解析して、統計学的に処理したものが生成AIの言葉、表現として我々の前に提出されます。ですから生成AIは自律的に倫理だとか、理想だとか、目指すべきゴールというものをつくることができません。
その場その場において「うそをついてはいけないか、あえてうそをつくべきか」といった倫理的判断や、「このコンディションであれば、これが理想的だ」というゴール設定は、経験をベースにした「内在的な動機」、体のなかから湧き起こってくる理屈ではない「混沌無差別の状態」が基盤になるからです。AIが計算処理して提示する答えは最適化を目指したものであっても、その場、その瞬間の最適解とは限りません。やはりそこには人間の経験をベースにしたものが必要なのです。
教育とニューロダイバーシティ
人間にはこの純粋経験があるからこそ、クリエイティビティが生まれます。私はクリエイティビティを「自分のなかから湧いてくる知的価値」と定義しています。つまり内在的な動機とつながっているもので、まさにジェネラティブ、生成的な能力。このクリエイティビティは内在的なやる気と、一般的な発想ではないアプローチを思いつく余裕とエネルギー、そして経験が必要です。ここでいう経験は、皆さんが小さいころのことを思い出していただくとわかりやすいかもしれません。子どもは、誰でも最初は自分はピカソかもしれない、というくらいに自分を天才だと思っているものです。
西田哲学的にいうと主客未分化の状態で知覚ができる。理屈や分析が邪魔しない。まさに純粋経験の状態を損なわずに表現ができる。大人になると「自分より頭のいい人がいる」「こんな発想はありふれている」と、自由度も自信もなくなっていくのですが、子どもにはそういう制限がないわけです。
これをクリエイティブコンフィデンスというのですが、創造力に自信をもち続けることでどんどん内在的動機が活発になり、才能や得意分野が発達していく。
今注目されている教育方法のひとつに「フロアタイム」というものがあります。大人もフロア(床)に座って、子どもと一緒に遊びまくるという教育で、自閉症の子どもが、その興味・関心や才能を自由に発揮できるように考えられた方法です。まさに子ども一人ひとりの「純粋経験」を最大限尊重した教育のあり方だと思っています。
この純粋経験を重視した教育が必要なのではないかと考えて、私は今「ニューロダイバーシティ」というコンセプトを広めたいと思っています。神経の多様性。つまり自閉スペクトラム症の人々などの発想や表現を社会全体が理解し、支え合い、認め合う。その第一歩として「まちの保育園」を運営する松本理寿輝さんと一緒にニューロダイバーシティの学校を実践しようと準備を進めています。
茶道に「和敬清寂」という言葉があります。利休の精神ですが、主人と客がお互いに心を和らげて尊敬し合うこと。それは主客混然一体となった「和」の心のこと。100年以上も前に生まれた西田幾多郎の「純粋経験」。この意味を問い直すことは、これからの時代において、人間が本当にすべきことは何なのかを考えるための指針になるのではないでしょうか。
伊藤穰一◎千葉工業大学学長。デジタルアーキテクト、ベンチャーキャピタリスト、起業家として、社会とテクノロジーの変革に取り組む。2011年から19年まで米マサチューセッツ工科大学(MIT)メディアラボの所長。23年7月より現職。
(文=伊藤穰一)