数学と哲学の彼岸?「同じさ」とは一体なにか。加藤文元×川上量生×東浩紀

哲学者・批評家東浩紀氏が創業した「ゲンロンカフェ」でこの8月、イベント『加藤文元×川上量生×東浩紀「数とはなにか─IUT理論と数学の立ち位置」が行われた。

東氏、ならびにドワンゴ創業者川上量生氏が、東京工業大学名誉教授加藤文元氏による、数学理論「IUT理論」(京都大学数理解析研究所 望月新一教授によるもの)についての講義を受けた後、IUT理論と数学、ひいては哲学について議論したのである。

そして来る12月17日(日)14時から、大好評だった本イベントの「続編」、加藤文元×川上量生×東浩紀「真理とはなにか─数学とアルゴリズムから見た『訂正可能性の哲学』」が行われることとなった。

──本稿では加藤氏の「note」からの転載で前回のイベントのダイジェスト版を振り返り、東氏の新著についての加藤氏の解釈を紹介する。動的な「同じさ」は訂正の繰り返しによって担保されるか? 哲学と科学における「同じさ」の重なり、異なりとは──? 

文系と理系は本当に対話ができるのか。加藤氏による考察が読み逃せないことは無論だが、なによりもまずは冒頭、稀代の哲学者・実業家が、同じく稀代の数学者から講義を受ける様子をお楽しみいただきたい。

なお加藤氏はSNSでの数学関連の発信でも知られる数学者で、X(元ツイッター)のフォロワー数は1.9万(@FumiharuKato)。

加藤文元氏はこの6月、IUT理論とその関連分野における重要な発展を含む最優秀論文に、自らが所長を務める「宇宙際幾何学センター」から毎年賞金2万ドル〜10万ドルを贈呈することを発表した。

また川上量生氏は個人として、「IUT理論について、理論の本質的な欠陥を示した論文を執筆した最初の数学者に100万ドルを贈呈する」ことを表明した。



8月27日に、ゲンロンカフェでのイベント『加藤文元×川上量生×東浩紀「数とはなにか─IUT理論と数学の立ち位置」に出演した折に、東さんからご著書『訂正可能性の哲学』(ゲンロン叢書、2023年8月)を頂きました。次の日から読み始めましたが、大変面白く含蓄の深い本だと即座に悟りました。



私は普段から本を読むスピードが遅く、しかも読んだ片っ端から忘れてしまう傾向があるので、できるだけメモをとりながら読むようにしています。しかし、この本は非常に読みやすくスイスイ読めてしまうのには驚きました。

とはいえ、スイスイ読んでしまって、あまりその内容について咀嚼できないまま読み終えてしまうことを避けるために、できるだけ速読にならないように心がけて、いつもより多めにメモをとりながら読み進めました。

「新しくないのに新しい」という感覚

こういう言い方をすると、もしかしたら誤解を受けるかもしれませんが、おそらくこの本の論旨は、少なくとも表面的には、新しくないのだと思います。そして、そのこともこの本を異常に読みやすくしている理由の一つなのだろうと推測します。

しかし、表層的なメッセージは新しくないからと言って、それだけを取り出して判断することはできそうにありません。というのも、そうすることで削ぎ落とされてしまう部分、つまり中心的なメッセージの周囲に何層にも肉付けされた部分に、たくさんの深い含蓄と、人間の行動や人間同士のコミュニケーションに関するなかなか言語化できない深い真実が畳み込まれているからです。そういう意味では、この本は容易に要約できるようで、実はなかなか簡単には要約できません。極めて特異な本だというのが、私の正直な感想です。

私が「新しくないのに新しい」と感じている意味を、もう少し丁寧に説明しましょう。この本では「正しい」とはどういうことか、「正義」とは何か、そして「民主主義」の本性とは何なのか?といったトピックが中心となりますが、おそらくその結論自体は、過去にさまざまな人たちが述べてきたことの中にも近いものがある。この本が言いたかったことは、後になればなるほど、実は本来当然のことだったのだということが、過去の言説などと照らし合わせられながら明らかになっていきます。

しかし、それを現代というこの時代に相応しい形で表現することは、並大抵のことではないのだろうとも思います。普通に正攻法の言葉だけで伝えようと思っても、手垢のついた言葉だけでは、あまり多くの人たちの注意を惹かないでしょう。

当たり前かもしれない大事なことを、新鮮な形でタイムリーに、しかも奇をてらわず率直に語ること。改めて考えると、これはとても難しいことだと思いますが、この本が340ページ以上の紙数を割いてやっていることは、そういうことなのだと感じます。しかも、その内容の多くは、言語化することがとても難しい微妙な事柄ばかりです。それにも関わらず、この本は淡々と、率直に、そして正直に、それを一つ一つ乗り越えていく。この本の凄さの少なくとも重要な一つは、こういうところにもありそうです。

「訂正可能性論理=一貫性原理」

この本の第2章は「訂正可能性の共同体」というタイトルで、タイトルだけからは何が語られようとしているのかわかりません。しかし、この章が実は前半の基礎づけを与える重要な章であることを、読み進めるとじきに思い知ることになります。

私はこの記事では、この章(第2章)とそれに続く2つの章で述べられていることにスポットライトを当てたいと考えています。というのも、この部分でやられていることは、新しい「論理のフレーム」を構成すること、言い換えれば、一つの原理を明確に打ち出すことにあるからです。著者の東さんの言葉ではないですが、もし私がそれを名付けるなら「訂正可能性論理」という感じになるでしょうか。さらに別名では「一貫性原理」とも呼べるかもしれません。

そして、この論理・原理の内実が、先に述べたような「短い言葉では要約しづらいもの」になっています。というのも、それはある種の矛盾を内包しつつ、それでいて安定性と一貫性を留保しようとする論理であるからです。おそらく、わかる人にとってはすぐにストンとわかるものなのかもしれませんが、誰もが共有している自明性の中で簡単に処理できるものではないでしょう。それでも、それは新しい「論理の論理」「規則の規則」であり、「原理」として捉えるべきであるというのが私の見立てです。

「同じゲームをプレイしている」ということ

で、その「訂正可能性論理=一貫性原理」がどのようなものか?という問題ですが、以下では私の拙い言葉で少々「要約」してしまうことにします。でも、これは要約ですから、必然的に重要な何かが滑り落ちてしまっているだろうことを、最初にお断りしておきます。

まず最初に、ちょっと長いのですが、少々引用します。

さきに規則があり、それを理解するプレイヤーが共同体をつくるのではない。さきに共同体があり、それがプレイヤーを選別することで規則が確定する。…その結論もまだ静的すぎる。現実には規則は移り変わっていく。共同体も移り変わっていく。ゲームそのものが変わっていく。規則が共同体を生み出すわけでもなければ、共同体が規則を生み出すわけでもない。むしろ、プレイヤーたちが繰り出すプレイについて下される毎回の成否判断、そしてそれに付随する「訂正」の作業こそが、規則を共同体をともに生み出し、ゲームのかたちを動的に更新していくと考えるべきではないだろうか。(『訂正可能性の哲学』p.62)

規則は変わる。伝統や習慣や価値観は時代に応じて変わる。プレイヤーも入れ替わる…けれども、なにもかもが変わっていくにもかかわらず、参加する…プレイヤーたちは、なぜかみな「同じゲーム」も参加し続けていると信じている。(『訂正可能性の哲学』p.64)

共同体は、それまでプレイヤーのあいだで共有されていた意味や規則のネットワークが、ランダムな誤配=つなぎかえによって半ば強制的に「訂正」されることで持続性を獲得するのである。(『訂正可能性の哲学』p.87)


ここで問題になっているのは「同じゲームをプレイしているとはどういうことか?」ということだと思います。そして、大事なのは「同じ」という言葉の意味です。「訂正」「誤配」「移り変わり」などの言葉は、どれも「同じ」という言葉を軸にして回転しています。

「自宅の庭を散歩していると、いつの間にかヴェルサイユ宮殿の広大な庭園を歩いていた」という感じの夢を見たことがある人も多いでしょう。そういうとき、夢の中では「あ、そうか私はパリにいたんだった」と自然に考えて、特に不思議に思ったり驚いたりしません。朝起きて思い返してみると、どう考えてもおかしな展開なのですが、夢の中ではそうとは気付かず「あ、そうだった」とすんなり受け入れてしまいます。

場面は無茶苦茶な変わり方をしても「同じ」夢の中で「同じ」ストーリーが展開されています。この「同じ」という感覚には半ば強制力があり、その場の本人にはまったく自然に思えてしまいます。

私が以前『リーマンの数学と思想』(共立出版)に書いたように、19世紀に数学は存在論的な変革を遂げました。それによって、数学の対象は「以前とは違うものになってしまった」(J. Gray, "The nineteenth-century revolution in mathematical ontology" in D. Gillies eds "Revolutions in Mathematics" Clarendon Press, Oxford, 1992)。とはいえ、その前後で数や関数といった数学的対象そのものが変わったわけではありません。素数は依然として素数ですし、関数の微分可能性は19世紀の前と後で何も変わっていません。それらは「同じ」数学の対象であることを、数学者はまったく自然に受け入れています。

ここに挙げたような例は、どれも「一貫性原理」に基づいた現象だと思われます。それは「同じ=一貫」というフレームで考えた動的な「同じさ」の原理なのです。つまり、こういうことです。

一貫性原理

1. ゲームをしている人にとって、プレイの各瞬間では「同じさ」は問題にならない。プレイヤーは一つのゲームをしているという状況に自足している。そこには(少なくとも局所的には)論理があり、構造があり、規則がある。

2. あるときゲームが変わってしまう瞬間がくる。論理構造や規則が変化する。場合によってはガラッと変わってしまう。

3. しかし、ゲームをプレイしている人は(おおむね)その変化に気づかないか、あるいはそれを自然なものと(半ば強制的に無意識的に)受け入れてしまい、「同じ」ゲームをしているという考えに疑問をもつことはない。


この原理のテンプレートを、上で挙げた「夢の中の物語」や「19世紀数学の革命」に当てはめて考えてみてください。それらのストーリーの構造を、とてもうまく合致していることがわかると思います。

「同じさ」の問題

ところで、「同じさ」と聞くと、思い起こされるのは西郷甲矢人さんが日頃から叫んでいる「同じさの措定問題」です(西郷さんもZEN大学の教授就任予定者です)。数学においても(そして、数学に限らない広い分野で)「同じ」ということの意味を問うことは、深い問題系を孕んでいます。大まかに言うと「同じであること・同じさ」はあらかじめ「そこにある」ものなのではなく、都度毎に設定する必要のあることである。そして、その措定入用性や可変性は、数学や哲学にさまざまに重要な視点を提供している、ということです。例えば、西郷甲矢人・田口茂著『〈現実〉とは何か』(筑摩叢書)をご覧になるといいでしょう。

この「同じさ論」においては、(数学の)圏論や圏論的な視点が重要視されています。特に圏論における自然変換の概念がキーになっているのですが、重要なのは「可逆な自然変換(=自然同値)」というものです。

圏論においてはモノ(対象)と関係(矢印・射)が基本的なオブジェクトですが、自然変換はそれらよりさらに上位の変換概念です。これは関手(圏と圏の間の矢印)の間の矢印です。なぜそのような「上位の矢印」が重要なのか。それは現実の試行や行為など、何かが「現実に現象する」場面においては、必ず「非規準的選択(non-canonical choice)」を通して現象するのだという、著者たちの洞察が背景にあるからです。カノニカルでない何かに基づいて現れざるを得ない場合、最下層にある裸の写像や射のような原初的なものではなく、より普遍的な自然変換の考え方が必要になります。

そして、その自然変換が「可逆」であること、つまり「元に戻せる」ことが「同じさ」の根底にある。というのが、西郷さん&田口さんの主張です。例えば、サイコロを一つもって観察している場面を想像しましょう。我々の視覚では、3次元図形であるサイコロのすべての面(や内部)を、一度に認識することはできません。いろいろ動かしてみなければ、すべての面を観察することができないことに注意してください。

1の面から2の面に現れが変化し、ぐるぐる回していくと、6→5と変化して再び1の面が見えてくる…何度繰り返しても、同様である。このようなとき、われわれは「同じ」サイコロを手にしていると思う。実際に見ているのは、そのつどの多様な現われなのだが、この多様な現われの連鎖のなかに、「可逆」ということが起こっている…我々が「同じもの」を捉えているとき、いつもこのような「多様な現われの間のプロセスの可逆性」という現象が起こっている。逆に言うと、「多様な現われの間のプロセスの可逆性」こそ、「同じもの」の正体であるとも言える。(『〈現実〉とは何か』p.109)


ここで主張されていることは、もちろん非常にわかりやすい、いたって普通のことです。机の見え方が視点によって変わっても、それを同じ机とみなせるのは、いつでも最初の視点に戻ることができるからです。つまり、「元に戻れる=可逆である」ことが「同じであること」の正体だというわけです。

彼らの「同じさ」は、人間の認識のもっと深い層のところにまで追求されていきます。例えば、数学や科学における「同じさ」とは、どのようなものでしょうか?

科学における法則というものは「同じさを設定すること」に依存している。そして、どのような同じさを選ぶかということに絶対的に必然的な規準は存在していない。まさに非規準的な選択に基づいて法則が立ち現れるのであって、その逆ではないのである。(『〈現実〉とは何か』p.192)

科学や数学における「同じさ」は、我々の日常の現実とはまた違ったバランスのもとで措定されるものでしょう。その「同じさの境界」を精密にすればするほど、理論は自明と非自明の白黒を明確にするだろうし、明証性をより安定的に担保することもできるようになっていきます。「同じさの境界」は「自明性の境界」でもあるからです。

非可逆的な「同じさ」


さて、お気付きの読者も多いと思いますが、東浩紀さんの言う「訂正可能性論理=一貫性原理」における「同じさ」、すなわち「同じゲームをプレイしている」という意味での「同じさ」は、西郷さんたちが問題にしている「同じさ」とは似たところもあり、似てないところもあります。簡単に言うと、後者は「可逆的な同じさ」だったのに対して、前者は「非可逆的な同じさ」になっているからです。可逆的(=元に戻せる)からこそ「同じ=一貫」だ、という立場もあれば、非可逆的(=元に戻せない)だが(だからこそ)「同じ=一貫」しているというのも、また真実なのだということです。ここには、人間の認識や現実の現れに関する、深い含蓄が隠されているのかもしれません。

このことは、もちろん西郷さん&田口さんの著書でも、ある程度は押さえられています。

変動する世界のなかでは…「ああ、違ったのか」と気づいて柔軟に自分のあり方を変えられるシステムの方が、着実に、不断に現実を生き抜いていくことが可能なはずである…新たな現象が現れるとき、それはこれまで見られていた可逆性を壊すものであるとしても、むしろそれが要素となって新たな可逆的関係が見てとられうる。(『〈現実〉とは何か』p.170)


ここには「同じさ」のある種の訂正可能性が示唆されているようにも思われます。そして、その訂正可能性が現実の「同じさ」を、より着実なものにするということです。

もちろん、西郷さん&田口さんの述べる可変性は、東さんの訂正可能性とはニュアンスが違っているのも事実です。前者の可変性は、現実を「変換を基軸にして捉える」という彼らなりの視点に基づいているわけですが、後者はむしろ、そのようなシステム性を破壊する動きと連動しています。訂正可能性論理は非可逆な「同じさ」に基づいているというより、もっと深く、「同じさ」を担保したシステム・論理・規則・構造そのものの破壊から引き起こされます。自宅の庭がヴェルサイユ庭園に一瞬にして変わってしまう、しかもそれを半ば強制的に 自然だ ●●● と思わせられるという、少々、暴力的な「変換」です。西郷さん&田口さんたちには、そこまでの射程はなかったと思います。「 自然 ●● 変換」という概念における「自然」自体が、両者では全然で異なっているのです。

さらに言えば、訂正可能性論理における「同じさ=一貫」は、 遡行的に ●●●● 認識されるものだという点も、「可逆的な同じさ」とは異なっている重要ポイントです。非可逆的な同じさは、あくまでも当初は存在していない(あるいは当事者たちも気付いていない)部分に根ざしていますが、ゲームが変わることによって、初めて遡行的に存在する(あるいは気付かれる)ものです。それに対して、可逆的な同じさは可逆過程なので、リアルタイムに存在し認識できるものです。

この「遡行的」という側面も、「訂正可能性論理=一貫性原理」を理解する上で、極めて重要なものだと思います。これについては、以前書いた『アルゴリズムの遡行論理と訂正可能性』も参考にしてください。

ところで、最近、川上量生さんと食事をしていたとき、ここまでの話を要約して説明すると、川上さんは「非可逆性は非可換性から来るのではないか」という指摘をされました。川上さんの頭の中では、アルゴリズムにおける手順の置換不可能性があったようです。確かに、訂正可能性論理はアルゴリズムの論理だということは、上に挙げた記事『アルゴリズムの遡行論理と訂正可能性」における重要な論点でした。ユークリッドの互除法に関して起こっていたことは、A(=過去)からB(=現在)に至る経路と、遡行的にBからAに解釈が戻る経路が違っていること、すなわち、A→B→Aというループがゼロ・ホモトープでないということでした。このようなことが起こる他のパターンとして、往路と復路では手順の組み替えが起こるために、経路が異なってしまうというモデルを考えることも可能でしょう。このあたりのことは、もう少し時間をかけて考えてみたいところです。

以上のように「同じさ」の問題を通して見ることで、訂正可能性論理をまた違った視点から見ることができること自体は、私個人の感想としては非常に興味深いことだと思います。東さんの訂正可能性論理も、西郷さん&田口さんによる「同じさ」の措定問題も、どちらも「同じさ」の動的側面をえぐり出しているところに共通点があります。そしてその動的な「同じさ」は、可逆的な現出プロセスの変換を受けるものでもあれば、非可逆的(ときには暴力的)な変動を被ることもある。しかし、それでもなお「同じものは同じ」であり、同じものは一貫しているということなわけです。

数学の「同じさ」


例によって、この文章は未完のまま、中途半端に終わらざるを得ません。まだまだ私は自分の解釈に満足していないからです。ですが、最後にひとつ、暴力的な同じさ措定の非可逆課程の例をお目にかけたいと思います。それは「数学の論証性」の問題です。

例の前に、『訂正可能性の哲学』の中で実際に述べられている「論理のテンプレート」をひとつ引用します。

A(自然)は自足している。B(文明)は存在しなくてよい。しかしAはAのままでいられなかった。AがAでいるためにBが必要になって「しまった」。Bの出現はある意味では必然ではないが、別の意味では必然だ。AにとってBはあくまでも「おまけ」なはずだが、現実にはBが存在しなければAも存在しない。(『訂正可能性の哲学』p.197註)


これを踏まえて、以下の物語を読んでみてください。

数学は古代バビロニアや古代エジプトで高度に発展した。数学はそれだけで十分に自足していた。これ以上、何を進歩させればいいのか?と、当時の人々は感じていた。しかし、あるとき古代ギリシャで定理を証明するという形の、あたらしいゲームをやる連中が現れた。新参者で田舎者の傍流でしかなかった彼らは「これが数学というものですよ、あなた達もこういうものをやってきたでしょう」と言って憚らなかった。そして結局、数学はそうなってしまった。つまり、論証数学になった。数学にとって証明はあくまでも「おまけ」なはずだが、現実には論証がなければ数学も存在しない。

数学が論証数学になって「しまった」という、この過程は極めて暴力的で永久に非可逆的でした。実際、その後も数学は歴史の中で何度も非可逆的な「同じさ」の組み替えを経験しますが、このときほど強制力が強かった「同じさの訂正」はなかったものと思います。それは2000年以上たった今でも我々に同じ数学をやっているという感覚を、ほぼ完全に無意識に引き起こしているからです。

結局のところ、そういうことなのかもしれません。非可逆で半ば強制的な訂正なのに、なぜ「同じ」ゲームなのか?なぜ「一貫性原理」なのか?それはこんなに多様で混沌としているのに、なぜ数学はひとつ(と思い込ん)でいられるのか?という問いと連動しているのかもしれません。少なくとも、数学においてすら、「一貫している」ということは、全然簡単なことではなかったのでした。

とはいえ、「数学が論証数学になってしまった」とは、必ずしも否定的な意味で言っているのではありません。数学が論証をその議論の主軸に据えることで、数学はより精密になり、より豊かになり、数理科学の技術が進歩することもできました。しかし、そうでなかった可能性もあった中で、非可逆的にこうなって「しまった」という側面を、ここでは強調しているわけです。

論理は適用されるべき→訂正はされるべき


むしろ、このような形で「訂正されてしまう」ことの方が、一貫性を持続する上で重要なのだ、というのも東さんの論旨であるように思われます(そして、それは上の引用からもわかるように、西郷さん&田口さんの論旨でもあります)。

論理とは「なぜそれが正しいのか」とは、普段問われないでほとんど無意識のうちに現実世界に適用・投影される仕組みなのだとしたら、「訂正可能性論理=一貫性原理」もひとつの論理だということになるでしょう。それはとても深い、時間性とプロセスのロジックだということなのでしょう。

そして、もしそれが「無意識のうちに適用される」ものだとしたら、逆に「無意識のうちに使われないでしまう」ものでもあり得ます。そして、それが現実に適用されないでしまうということは、逆に「一貫性が損なわれる」ことになるということを、この「訂正可能性論理=一貫性原理」という方程式は我々に警告しているようにも思うのです。数学が今の姿の数学として、まだまだ広がり続けているのは、それが訂正に訂正を重ねることで持続してきた証です。

この点を、東さんは『訂正可能性の哲学』の中で民主主義のあり方など政治的な問題に適用しています。私はこのささやかな記事の中で、ほとんど東さんの主張を紹介することなく、私自身の解釈(誤読)に基づいて議論してきましたが、「訂正可能性論理=一貫性原理」は人間の行動・認識に関する深層的な真実から湧き出でて、人間社会のあり方や人間同士のコミュニケーション、さらには政治に関する話題にまで広がっていく、極めて本質的なロジックだと、私は思うのです。


12月17日(日)14時〜
『加藤文元×川上量生×東浩紀「真理とはなにか─数学とアルゴリズムから見た『訂正可能性の哲学』」

配信 https://shirasu.io/t/genron/c/genron/p/20231217
来場 https://peatix.com/event/3770095

理系にも広がる訂正可能性の含意とは。
イベントの予習/参考に →加藤文元氏:「アルゴリズムの遡行論理と訂正可能性」
https://note.com/katobungen/n/n6f9a4e5ec8d1

転載編集=石井節子

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